深夜、ヨハン・ファウスト邸宅にある執務室

部屋の主メフィストは絶賛お疲れモードだった
それも今日一日卒業式の来賓席に座りっぱなしだったせいである
多種多様の反応を見せる人間は可愛かったけれど如何せん校長の話が長すぎた
春の陽気に誘われてしまいそうになっても保護者や生徒の手前ピシッと理事長らしく聞いていなければならなかった
ああもう校長という人種はまるでヴァチカンの年寄りの様だと嘆く、アイツらの話も大抵つまらない
それに引き換え奥村雪男の読んだ送辞は簡潔で感動的で素晴らしかったと後見人バカなことを考えていると……

「兄上!」

愚弟が天井からひょこっと現れた

「兄上!兄上!兄上!」

この世で唯一自分を「兄上」と呼ぶ存在がその呼び名を連呼する
あまり構わないでいるからこうなるのだと解かっているが好い加減うるさいので目の前に降りる様に命じる

「あ、兄上!あの……」
「ん〜どうしたアマイモン……」

もう一度メフィストを呼んで、それから少し視線を落として言い淀んでしまう弟に疑問を持ち訊ねる
いつもなら仕事の邪魔だと追い出しているところだが今日はもう仕事をする気分でもないので相手にすることにした
兄上だってたまには弟とのプライベートを大事にしたいのだ

「あのですね……」

じっとメフィストの腹の辺りを見ながら中々要件を切り出せないでいるアマイモン
この弟にしては珍しいな、と観察していると……その頬がうっすら色付き始めたので驚いた
首から上をほんのり桃色に染めながらモジモジと指を動かし、ついには完全に俯いてしまったアマイモンは

……なんというか新鮮で……

(これは本当に私の愚弟なのだろうか)

――か、可愛いではないか!!

感情の起伏があまり見られなかったアマイモンがこんな表情になるなんて、これも物質界に来た影響か!?やはり物質界は素晴らしい
しかし誰が私のアマイモンにこんな仕草や表情を教えたんだ?……おのれ私のアマイモンにいったい何を……と動揺しながらもきっちり枕に“私の”をつけることを忘れない兄上

「兄上!」
「ああ、なんだ?」

と、内面の動揺などおくびにも出さず冷静に応える

「兄上の第二ボタンください!!」
「は?」

ようやくアマイモンの口から出てきた要件はメフィストにとって予想外なものだった

「第二ボタン?」

とは、日本のゲームやアニメなどで観る卒業式後のイベントのことだろうか

(あれは都市伝説ではなかったんだな……)

第二ボタン下さいなんて自分は言われた事ないので勝手に都市伝説にしてしまっていたメフィスト
学生を体験したことないのだから言われた事がなくて当然である

「何故だ?」

なので、思わずそう訊くと『ガビーン』というこれまた都市伝説だと思っていた擬音を発しながら後ずさった
こんな音どこから出したのだろう……器用な弟だ

「今日はす、好きな人に第二ボタンを貰う日ではないのですか?」
「は?」
「ここの生徒が言ってました……けど」

今日は正十字学園の卒業式だった
たとえ廃れた風習でも何人か第二ボタンを貰ったり貰われた者はいるだろう
その時の会話を聞いたアマイモンが歪曲して理解してしまったのだな、とメフィストは憶測付ける

「まぁ、そうだとして……どうして私にそんなことを頼むんだ?お前は」
「それは……解かってる癖にっ!」

兄上は意地が悪い、と顔を真っ赤にし目を潤ませながら睨まれても怖くない

「ボクが兄上を好きだから、です」

それでも第二ボタンを諦めきれなかったのだろう、メフィストの要望に素直に答える

「ふふふ」
「頂けるのですか?」

とことこと執務椅子の隣まで近寄り肘掛に両手を付いてメフィストを見上げる

「兄上……」

尚も不安げに瞳を潤ませるアマイモン、そんなだから兄上にいいようにされてしまうんだと彼が気付くのは何時のことだろう

「別に構わないが」
「ホントウですか!!?」
「ああ勝手にとっていけばいい……」
「わーい、ありがとうございます」
「そのかわり……」


――手は使うなよ?

と、何ともない風にメフィストが言う

「え?」
「だから欲しいなら勝手にとっていいが、手を使わずにだ」

アマイモンが呆気にとられている内にメフィスト椅子を回す
すると丁度目の前にその第二ボタンがきた
昼間、人間の話を聞いた時から欲しくてたまらなくなったモノ
自分でもなにを躊躇しているのか理解できないがどうしても言い出せず
この時間まで兄上に顔を見せることも出来ないでいた
先程勇気を出して漸く欲しいと言うことが出来たそれが目の前にある

「手を使わずに……」

つまり、この体制から考えても答えは一つしかない

――つまり、口でとれってことですか……?

メフィストを見上げるとそれはもう良い笑顔で笑っていた
こんな時になんだがカッコイイと思ってしまう

「悪趣味です」
「悪魔だからな」

開き治ったメフィストを見てアマイモンも「もういいや!」という気になった
メフィストの膝に手を付き腹の辺りに顔を近付けると勢いよく上から二番目のボタンを咥えた
まず唇でかぷっと咥え、傷を付けないよう慎重に歯で挟む、布地が鼻や唇に擦れて少し痛い
そのまま引っ張るといとも簡単にボタンをとることができた

(よし、これで)

“好きな人に贈る”ボタンを手に入れることが出来た

(兄上は本当に知らなかったのだろうか?)

第二ボタンは好きな子にあげたいと今日卒業する男子学生がそう言っていたから間違いない
それを“好きな人に貰う”と嘯いたのは、正しく説明してメフィストを困らせたくなかったからだ

「……よく出来たな……アマイモン」

アマイモンが膝の上に顎を乗せてぼーっとしているとメフィストから優しく撫でられた

「では、」
(え……?)

急に撫で方が愛でるものから性的なものへと変わったのに気付き口にボタンを咥えたままそっと見上げると
完全に悦に入っているメフィストが熱のこもった瞳で見下ろしていた

「今日は全て口でやってもらおうか」
「ひっ」

思わずボタンを零すと咎めるように顎を引かれる

「できるな?」
「……はい」

こうなってしまった兄に抗っても仕方ない
経験上あまり待たせると要求がエスカレートしていくので(待たせなくてもエスカレートしていくが)早急に応えようと彼の腰にしがみ付いた
アマイモンは水玉のネクタイを噛みながら目を伏せる

(あーあ)

求めて下さるのは確かに嬉しいけど

(そんな気はなかったのに……)

ただ第二ボタンが欲しかっただけなのに

「着込み過ぎです……兄上……」

自分だけに許された唯一の名称を呼びながら
背筋を走る焦れるような感覚を必死で否定するアマイモンだった






END