貴方は刹那と悠久を司る時の王です

貴方がボクの起こす行動を見ては「愚か」だと言う瞳に楽しげな色が映されていたのはいったい何時の頃だったろう
貴方がボクの創り出すものを見ては「美しい」と言う瞳に喜びの色が映されていたのはいったい何時の頃だったろう

何時の頃かは思い出せないくらい時が経っているのに自分はあの色を何時までも忘れられない
あの頃の兄上はボクのこと単なる遊び道具でしかなくても確かに興味をもっていた

兄上が最初に物質界に惹かれたのは人間が生まれてからだ

「面白いものがあるぞ、アマイモン」と滅多に見せない本当の笑みを浮かべて指さした先にあったのも人間だ
認識したのは二本足で歩き、ボクらと同じように言語を使う生き物だということ

これからあの生き物があの世界でどんな進化を遂げるのか楽しみだと兄上は言った
暫くして兄上は頻繁に人間の社会を文化を覗き見るようになりボク以外の兄弟と関わることも少なくなった

兄上が最後までボクと関わりをもっていたのは物質界の話を黙って聞いていたからだろう
あの頃もボクは兄上の語るそれの何が面白いのか理解できなかった
物質界の話をしている兄上を見ているほうがよっぽど面白かったし魅力的だと思った
眷属以外の悪魔達が呆れて離れていく中でもボクは、生まれ育った虚無界から物質界へと興味が移ってゆく兄上の傍にずっといた

ボクが兄上から離れたのはボクの憑代になる人間を見つけた約千年前だ
人間の身体を得て嫉妬という感情を覚えた
覚えたというより気付かされたんだろう、それとボクが兄上に向ける感情に……

人間と同じような感情を持つ自分に嫌悪したのも一瞬で、兄上を恋しく想う気持ちにすぐ塗りつぶされた
こんな大きな気持ちにどうして今まで気付かなかったのか?ボクより以前に憑代を見つけた兄上もこんな気持ちを抱いたんだろうか?
疑問に思って不安になった
兄上が愛しているのは人間であってボクではない

愛しても愛しても此方を向いてすらくれない兄上に焦れた
ボク以外のものを愛でる兄上の傍にいるのが辛くて、でも兄上を真っ向から拒絶することも出来ない
だから地の王としての役目を理由に少しだけ距離を置いてみた
そしたら寂しくて淋しくて、やっぱりボクの居場所は兄上の傍にしかないんだと思った

このことを伝えようと兄上の元へ急いだ
久しぶりに会った兄上は前に会った時よりかっこよく見えて心臓がドクンと波打つ
兄上が振り向く、ドキドキが鳴りやまない、心臓は隠さなきゃいけないのに、この音は耳の良い悪魔なら聞こえてしまうんじゃないかと心配になる

「兄上」
「ああアマイモン丁度よかった。お前に会って行くかどうか考えあぐねていたところだから」
「……兄上」

ふ、と

確かに此方を向いているのに自分を見ていないその瞳に不安が生まれた
勿論表情には出さないけど恐怖にも似た感情がどんどんと湧き上がってくる
言葉に矛盾があるかも知れないがボクと兄上の間にあるのは“虚無”だ

何もない、兄上はボクを見ない
この時ボクは兄上にとって自分は取るに足らない存在になってしまったのだと気付いた

「私は物質界に行く」

イヤです

「此処にはもう二度と戻ってこないだろう」

ちょっと待ってください

「お前は今までよく私に尽くしてくれたな」

そんなの聞きたくない

「置き土産に私の邸宅をやろう、好きに使え」

そんなのいらない……なんて言えないけど

「兄上……待って、僕は」

「Auf Wiedersehen」

サヨナラ!と言って兄上は虚無界から去っていってしまいました
あっという間の出来事でボクは暫く――物質界の時間にして十年くらいでしょうか――その場に突っ立っていました
兄上が出て行った扉があった場所をジッと見詰めていると、不意に地面にポタリと水滴が落ちました

――雨?いや虚無界にそんなものは降らない
だとしたら、これは……

「う、ああああああああああああああああああ!!!」

ねえ、この気持ちはなんですか?
これは本当に悪魔が抱くものでしょうか?
この姿を見られたら貴方に滑稽だと笑われるかもしれない、それでもいい

逢いたいです
逢いたいです兄上!!

ボクだって人間のように二本足で歩きます!
両手を使い貴方を抱きしめることも出来ます!
涙を流すことも、たった今可能になりました!

人間に出来てボクに出来ない事は“何”ですか?
ボクに足りない“物”はなんですか?


貴方はボクと同じ悪魔ではなかったのですか?
時は生きる限り共にあるものではないですか?
もう虚無界にはボクの居場所も居たいと思う場所もない
貴方がいない世界などもう要らない

ねえ?どうして兄上はボクも一緒に連れて行ってくれなかったんですか?
僕が僅かな間でも貴方から離れてしまったからですか
話し相手にもなれなくなったボクにはなにも価値がなくなったのですね

あやまります
あやまりますから、どうか!

戻ってきて此処にいて

せめて、貴方を想う者が誰も居なくなるまでは……
ボクが貴方に居て欲しいと思わなくなるまでは……
此処を捨てないで欲しかった――

「あ、に、うえ……兄上!!兄上ぇええええええええ!!!」

虚無界の果てまで轟く声は物質界には届きはしないでしょう
周りの悪魔達の嘲笑う声が聞こえた


――――……


この頃のボクは喜びや安堵なんて感情を知らなかった

知ることが出来たのはそれから二百年後
兄上に呼び出されて物質界で過ごすようになってから

兄上は変わらず悪魔の上に立つお方だったけど、あの頃よりずっとお優しくなられた

隣にいることを許される
この存在もう二度と失いたくない





【群緑の谷】



春麗らかな日曜の午後。
雪男は何かと忙しく後回しにしていた学校の勉強に専念しようと学園内にある図書館に来ていた。
いままで幾千と踏まれてきたであろう古い木目を遺す床板は足音を吸い込み、高い位置にある窓から差し込む光は埃までキラキラと輝かせる。
喧騒とは程遠い其処は雪男にとってこの学園の中でも特に好きな場所の一つだった。

必要な道具を持ち勉強用の机が置いてあるフロアに行こうとすると、ふと、絵本のコーナーに見知った顔を見つけた。

(……なんでこんなところに)

深緑色のとんがり頭、その兄同様にクマを飼ってる藍の垂れ目、あれは紛れもなくあの時のアイツだ。
蠢く森の中で遇った悪魔。燐の操る青い焔を騎士団に知られるキッカケになった地の王アマイモン。
ソイツが床に本を広げ飲食禁止の図書館内で棒付きの飴を口に咥えながら四つん這いになって読み込んでいる。
基本的に知性よりも本能で動く悪魔が本を真剣に読む様は意外だが、あそこは絵本のコーナーだ。

(なに読んでるんだろう)

初めて対峙した時とは雰囲気が違う、なんというか今の彼は人の子のようだ。
自分たち近辺のことメフィストが当分は大丈夫でしょうと言っていたし(当分、というのが引っかかるが)
大丈夫に彼の事も含まれているなら近付いてみてもいいだろうか?
勿論油断はできないけど、この悪魔が此処でなにをしているのか好奇心が働いた。

「なに読んでるの?」

雪男はしまったと顔を歪める。悪魔相手に敬語を使いたくないし刺激したくないと気を付け過ぎた結果まるで幼児に問いかけるような柔らかい声を出してしまった。

「お前は奥村燐の」
「うん、弟の雪男です」
「スノーマン?イエティ?」
「いや僕は悪魔じゃないから」

そしてイエティはUMAじゃないのかとツッコミたかったが、アマイモンが言うなら悪魔かも……いつか見てみたいと雪男は白くてふさふさしたUMAに思いを馳せた。討伐対象だったらイヤだけど。

「……人間か」

アマイモンの眼がスッと細められる。敵意というより少し拗ねたような色をしている。
咄嗟に「羨ましいの?」と聞いてしまいそうだった。雪男は自分でも何故そんなことを聞こうとしたのか解らなかった。
でも……

「日本に関する文献はあらかた読み終わったので……少し趣向を変えてみようと思ったんです」
「え?」

この図書館にあるもの全て?と空いた口がふさがらなくなった。メフィストは知恵がない、愚かな奴だと言っていたが高等悪魔だ。
知能は人間より高いのかもしれない。そういえば燐から聞いた話ではアマイモンは分析力が高かったことを思い出す。
アマイモンが読んでいたのは写真集か絵本のサイズのものだったが場所を考えても絵本で間違いないだろう。
そっと挿絵を見ると、最後のページ赤い鬼が立札を見ながら泣いているシーンだった。それだけで雪男は何の本か解かってしまった。
西洋のものとは形は違えど鬼はアマイモンの眷属だから、シンパシーを感じているんだろうか?
それは雪男が幼い頃からどうしても好きになれない話だった。

「泣いた赤鬼?」
「あ、そうです。知ってたんですか?」
「有名な話だからね」

主に言い付けられているのか、好戦的なところの見られないアマイモンはやはりマトモな人間みたいに映る。
いや、悪魔でもマトモな者はいると知っている、我慢を知らない子供の様でいて狂う程の時の中で彼らは退屈を強いられていることも。

「読んでみてどう思った?」
「え……そうですね、哀しいと思いました」

嗚呼、と心の中で嘆く雪男。赤鬼にも青鬼にも同情できない自分はひょっとしたら目の前の悪魔よりも冷たいのかもしれない。
しかし人間を騙し友に牙を剥き金棒を振り上げた赤鬼も、正直に全てを告げて赤鬼の元から去ってしまった青鬼も馬鹿だとしか思えないのだ。
赤鬼はそこまでして人間と仲良くなりたかったのかもしれないが罪もない同胞を傷付けて嘘を吐いて手に入れた居場所に本当の価値はあるのか?
青鬼だって最初から最後まで何も教えず村人を襲い、赤鬼に攻撃させて逃げ出せば良かったのだ。いくら赤鬼の居場所を護っても心を傷付けたら意味がないだろう。
誰もが感動する物語にそんな優しくない感想を抱いてしまう自分を雪男は嫌悪した。

「青鬼は……馬鹿だなぁ」

不意に耳に入ったのは、自分の感想によく似た言葉だった。

「……青鬼は賭けてみたかったんだろうな」

赤鬼が自分をとるか、村人をとるか
――悪魔をとるか、人間をとるか――

「アマイモン」
「最初から敗けると解ってて賭けるなんて馬鹿だ……」

独り言として呟かれている言葉は酷く哀しい気持ちにさせる。
ああ、でも「だからか」と雪男は納得した。今まで理解出来なかった青鬼の気持ちが解かった。

本当は赤鬼に作戦に乗って欲しくなかった。村人よりも自分を選んで欲しかった。赤鬼が鬼よりも人間と共に暮らしたいのだと解っていて、賭けに出たんだ。
解かっていたけど悲しかったから赤鬼に全部教えてから居なくなった。

「うん……哀しいね」

青鬼がなにも考えないで行動していたら、そうは思えないのに――視点を変えるだけでこんなにも違う。
それが真実かはわからないけど、アマイモンの言う通りならとても哀しくて切ない愛の話。

「ボクなら……」
「ん?」

森の中の深い湖のような色をした睫毛が伏せられ、碧玉の煌めきを隠す。

「赤鬼が村人と仲良くなる協力なんて本当はしたくないし」
「うん」

彼自身が誰かから“したくない事”をさせられているのかもしれない。
ただ、その誰かさんの目的は“仲良くなること”とは限らない。

「……自分から傍を離れようなんて絶対に思わない」

赤鬼は優しいから長い時間をかければ少しずつ人間に打ちとけていくと青鬼なら気付く筈。
人間から仲間として認められたいなら正直で在るべきだ。
村人を騙さなくても良い方法もきっとあって、青鬼にはずっと傍で一緒に探していく道もある。

――それを選ばなかった二人の悲劇の物語じゃないか

この物語を雪男はやっと人並みに悲しいと思えた。
だから心の中で目の前の悪魔に素直に感謝して、そして恩返しをしてみたくなった。

「アマイモンは、傍にいたい人がいるの?」

どうせ、こうしてる間の事も彼の君には筒抜けなんだろう。
木を隠すなら森に……というように、この学園都市は何処も彼処もあの道化師の気配が満ちているから、気付かないけれど。

「……」

黙って頷くアマイモンは、あの道化師が自分のことを雪男に話した時どんな瞳をしているのか知らない。
雪男の知っている“兄”が“弟”に向ける視線でも“上司”が“部下”に向ける視線でもないのだ。

――ひょっとして虚無界に置いてきた間もずっと彼のことを見張っていたんじゃないかな?

苦笑いを浮かべて、また問うた。

「その人のこと好きなんだね、特別に」
「……」

無言は肯定。

「その人も君の事が好き?」

今度は小さく首を振る。

「あの方は……ボクのことなんて見ていませんから……もう」

アマイモンが無表情のまま呟いた瞬間。

彼の感情が動いた際に“地”が震えるのと同じように、この空間の“時”が震えた気がした。





end