物質界に降り立ち始めに感じた万物の息吹と大地の脈はアイツのものだった 「あの方は……ボクのことなんて見ていませんから……もう」 なぁ、愚かな弟よ……たしかに私の目は物質界に向けられているかもしれないが 私の耳はどこまでもお前の声を捕らえてしまえるのだぞ――? 地の王アマイモン あれはまだ生まれたばかりの頃なんでも知りたがった まだ不慣れな虚無界を二人で歩いていると、あれは急に立ち止まり、ある一点を不思議そうな顔をして見た その先にいたのが鬼だったので私がお前の眷属じゃないかと教えてやると 「ボクの……」 そう小さく呟いて暫くジッと鬼を見ていた 無表情ではあったが興味深そうにしている姿が珍しく思えた 徐に手を下ろすと丁度あれの頭が其処にあったので尖がった髪を撫でつけるように掌を動かす アマイモンの宝石のような瞳が私を見上げて瞬いたのは懐かしい記憶だ 私はそれに何と言って応えたのだったか たしか「愚か」だと言わなかったか 知恵と力をつけたあれは私のもとへ来て自ら創った植物や宝石を見せてきた たしか私は「美しい」と言って褒めたな そうだ、あの頃の私はあれの成長を喜ばしく思っていた なにせ虚無界は何百年経ってもなんの変わり栄えのしない世界だから、あれの成長は見ていて面白いものだった だが、やがてアマイモンの成長は止まるということも解かっていた 虚無界にあれの目に留まるようなものは無くなる、あれが決まった行動しかしなくなる、あれの創造もやがて必要なくなる 力関係だって変わらない、父上はずっと一番の権力者で私は二番目、あれもずっと同じ位置にいて父上を始め自らの上にいる者を敬慕し続けるに違いない ――ああ、つまらない あれを変えるものが何もない世界なんてつまらなくてしょうがない―― なにか面白いものはいないだろうか…… そう思っていた矢先、物質界にある生き物が誕生した “人間”だ 二本脚で歩き、私達のように言語を話す生物 人間が生まれたことによって物質界は大きく動いた 何千年も変わり栄えのしない虚無界とほんの数十年で変わってしまう物質 人間の本質や行動は変わらなくても社会の形は変わる文化は積み重ねられていく 世代にわたって同じ事を繰り返しても前とは違う確かな進化はみられた なにもない虚無界にくらべ物質界にはものが溢れかえっている界 「面白いものがあるぞ、アマイモン」 それからというもの私は逢う度あれに物質界の話をした 少しでも興味を示せばいいと だがアマイモンは物質界の話を聞いても特別反応することはなく、私が話す事務的でつまらない話をした時と同じように聞いている 暫くすると地の王の役目を理由に私から距離をとった こうして私を理解するものは虚無界にはいないのだと思い知る ならばもう未練はない、こんなつまらない世界は棄ててしまおう 憑代を見つけた私は父上の思惑も乗せて物質界に向かうことを決めた 最後に私の元にやってきたアマイモンに邸宅のことを任せ ただの一度も振り返らずに、物質界の地に降り立った 「う、ああああああああああああああああああ!!!」 耳を劈くような弟の声を聞いたのは物質界で暮らしだして十年以上経った後だった 私は急いで虚無界に残してきた眷属にあれの様子を聞いた すると、あれは私が去ってからその場所から一歩も動かず、誰の声にも反応しなかったという あんなに可愛がっていた鬼の言葉すら…… 「あ、に、うえ……兄上!!兄上ぇええええええええ!!!」 プライドの高いアマイモンが周りの悪魔たちに嘲笑われるのにも拘らず、私を呼び、私を乞い、私恋しさに泣いている 嗚呼なんと愛おしいんだろう……叶うことなら今すぐ戻って抱きしめたい、でも私には物質界で成さなければならないことがあった 漸く正十字団に認められてきた所だというのに、ここで実家に帰り折角の信用を失うわけにはいかなかった ――アマイモン……お前はずっと、私の帰りを待っているんだな? ひとしきり泣いたアマイモンは私の邸宅に帰り、荒れ果てた城を整理しだしたと眷属の者に聞いた 今、私が与えた部屋をキャンディやスナック菓子で散らかしまくるアマイモンが、虚無界にある私の家をとても丁寧に大事に扱ったのだと――それが出来るなら今の部屋も綺麗に使えと思ってしまうけど 「兄上のこと何か聞いていませんか?」 「兄上はお元気なのでしょうか?」 「こんなことでは兄上に殺されてしまいますね」 「……兄上ぇ……」 違う世界にいても、あれが私を想う時の声はちゃんと私の耳に届いた そして気付いた事がある 私が虚無界を去ってからアチラの世界で私を“兄”と呼ぶ者はあれの他にいなくなったのだと 当たり前だ、虚無界を裏切り同胞殺しを企てる私を誰が兄と呼ぶというのだろう 確かに虚無界第二の実力を持つ私に表だって逆らう者はいなかったが嘗ての畏怖は恐怖に変わっていた 流石に眷属の者は私に傅いていたが、それでも心の内の不信までは覆せなかった あそこを去ったあの時から私に帰る場所はない、私が何も言わないからこうなったのだけど後悔はしていない もう淋しいとも帰りたいとも思わない ただ、アマイモン……私の弟は変わらず私を「兄上」と呼んだ それによって謗られても、己の立場が危ぶまれても、他の兄弟の中には忠告してくる者もいたと言うのに 誰の前でも私を兄と呼び慕うことを隠そうとはしなかった 私が弟を棄てて数百年の間、弟は虚無界の敵である私との関係を、虚無界で明言し続けた 日本に初めて足を踏み入れた頃に出逢った、キリストの絵をけして踏まなかった殉教者のようにも思えたし 身近なところで言えば双子の兄が焔に目醒めてから矢面に立たされる事の多い奥村雪男のようだ 我らの小さな末の弟のことを“安全”だと“信じてほしい”と訴える彼をあれと重ねてしまえば此れまでの認識を改めざるを得ない 弟があの様に表情を見せなくなったのは、私を諦めてしまったからなのかもしれない あれはずっとずっと私を待っていてくれたのに見返りを与えた事はない ――なぁアマイモン……私はお前の全てを知った気になっていたよ…… 【群緑の谷】 折角の休日だ。山のような課題は夜に回して溜まった洗濯物と掃除を済ませて午後から師匠に修行を見てもらおう。 奥村燐はまずは腹ごしらえだと厨房へ降りた。弟は朝早くから図書館に行くと言っていたので一人分の調理で済む……といっても二人分作ることを手間に感じたりはしないが 「いい天気だな」 屋上に二人分のシーツと衣類を干し終えた燐は大きく背伸びをした。麗らかな日差しの下、眠気が襲ってきたが弟が頑張っているのに自分だけが惰眠を貪っている訳にもいかない。 さぁて修行だ修行。どうせこの街のどこかで自分を監視しているだろうシュラに連絡を入れようと携帯を取り出せば丁度そのタイミングで鳴り出した。 しかし画面に映し出されたのは、出来れば休日に逢いたくない、それでも無視すれば厄介な相手。 『もしもし☆奥村くんですか?珍しいお菓子が手に入ったのでお茶でもご一緒にいかがですか?』 珍しいお菓子と言ってもどうせ添加物たっぷりの甘ったるいB級グルメだ。そもそもお茶会は修行より優先させることじゃない。 それでも断れないのは電波の向こうにいるのが通っている学園の理事長、塾長、仕事上の上司、義父の親友、なによりも己と弟の後見人であったからだ。 「わかったよ」と言ってやれば電話から軽快な声が聞こえる。なんだか様子が可笑しい気もしたが特に気にせず屋上の扉に理事長室への鍵を差し込んだ。 余談だが燐は自分の持つ理事長室のみ開くことの出来る鍵を密かにアマイモンから羨まれていることなど知らない、一か所にしか通じない鍵など無限の鍵を持つ彼には必要ないものだけれど―― 「いらっしゃい」 出迎えたのは白を基調とし所々をピンクであしらった奇抜な服を纏ったこの学園街の主人、メフィスト・フェレス。 その服装とは反対に彼の雰囲気に馴染むのは黒き闇と蒼い月明かりだと思う。白とピンクも不思議と似合っているけれど彼の本質は悪魔なのだから仕方ない。 「――で、いったい何の用だ?まさか本当に茶がしたかっただけじゃねえよな?」 予想どおりチープな味をしたケーキを頬張りながら問いかける。緑色をしたクリームが舌にべとつき口の中が真緑になっている事を想像すると吐き気がした。 「用があるなら早くしろよ、俺はそんな暇じゃねえんだ」 やはり様子が可笑しいメフィストに警戒したのか日頃の悠々とした燐からは想像もつかない声が出る。その青い炯眼で睨まれた悪魔はクククと喉の奥を鳴らした。 「いえ、訊きたいことがあったのと……あと証人になって欲しくて」 常からはぐらかしの得意な彼だが、今の言葉はただ歯切れが悪い。少し心配になった燐は無意識に視線を緩めた。 「奥村くん貴方は……貴方が親しくしていることで、その人間の立場が悪くなるとしても……絶対に手放さないでしょうね」 何を言うかと思えば 「ああ?なんだよお前、俺を自分勝手な奴みたいに」 「だって、そうでしょう?」 悪魔がまた嗤う、燐は否定出来なかった。魔神の落胤である自分と関わればソイツを危険に巻き込み、立場を悪くさせてしまうかもしれない。 それでも燐は生まれて初めて出来た友達や仲間から離れたくない、今の修行や必死の努力だって皆と共に生きる為にしている。 「……悪いかよ」 「いいえ、そんな貴方だから証人になって頂こうと思ったんです」 「ん?」 「アマイモン!」 メフィストが名を呼び、指を鳴らせば、ポンっというピンクの煙と一緒に一人の悪魔が現れた。何故かメフィストの膝の上に 「お、お前は……!?」 「オクムラ……リン」 たった今まで甘い匂いの漂っていた部屋に殺伐とした空気が広がった。アマイモンにとって奥村燐は一方的に敵視してる一触即発な相手だった。アマイモンはメフィストの膝の上に座ったまま爪を伸ばし燐は慌てて立ち上がり魔剣を構える。 「はいはい、二人とも武器をしまいなさい……今日はお前達を戦わせる為に逢わせた訳じゃないんですから」 「メフィストてめぇ何のつもりだ!?」 「お前兄上になんて口のきき方……って兄上!!どういうおつもりですか!!?」 二人は同時にメフィストを睨んだ。アマイモンは他の者が彼に不躾な態度をとっても「兄上、威厳がないんですね」「舐められたもんですね」等と言うだけなのに燐がそうするのだけは気に入らないようだった。 「だから、奥村くん貴方は今から誓いを立てるのに、証人として呼んだんです……藤本の代役ですね」 「は?」 証人?ジジイの?と、燐の頭に十個くらい疑問符が浮かんだところでメフィストはヒントを出す 「さて、神父の前で誓うものと言えばなんでしょうか」 「……ッまさか!!」 何かを察して青褪める燐と、なにも解からず二人の間で視線を彷徨わせるアマイモン、その顎を掴み視線を自分へと固定した。 「アマイモン」 「……なんですか?」 弟に語りかける彼の眼差しは……甘く真摯なものだ。 「お前は私にとって自慢の弟だ」 「……ッ!?」 いつも愚弟だなんだと言っている兄から突然そんなことを言われ固まるアマイモン。燐は「おお……」と感嘆の声を漏らした。 「いつかお前を私の“弟”だと物質界の人間たちに紹介できたらいいな」 「……え?」 「だいたいお前を隠しておくのも限界があるだろう……地の王」 見たことのないような優しい笑みを浮かべたまま、いつの間にか手袋を外した掌で頬を撫でる。兄を見ているだけで息が苦しい。 「なぁアマイモン、私に一つ誓わせてくれ」 「……何をですか」 カラカラに乾いた喉から、やっとのことで声を出す。 「――永遠を――」 大地が、揺れた。 「こら落ち着け、ここを壊すな」 「あ、あ、あ……兄上!?なにを!?」 「フンッ……」 何をと言っても昼間アマイモンが雪男と話していた『泣いた赤鬼』の話をメフィストなりに考えてみただけのこと。 常ならば悲劇を蜜のように甘く感じてしまう悪魔の性が、今回ばかりは働かず、どうにかバッドエンドを回避する方法を探ってしまったのだ。 それは酷く簡単なことだった。ただ一言で良かった。 村人に対して普段から青鬼を仲の良い友だと言っておけば 青鬼に対して一緒に村人から受け入れられるようと言っておけば 赤鬼は最後泣かずに済んだ。 ――私も今まで言葉が足りなかったのだろうな…… 本当にたった一言口にするだけいい、自分の欲望に忠実であれば出来る筈だ。 「私はお前も物質界も欲しい」 「ッ!?」 腕の中で飛びあがるアマイモンが愛おしい 「だから、お前ももう少し物質界に慣れて欲しいんだよ」 「あ……あ……」 「お前が私に付いてずっと物質界にいる為には物質界の者と関わる術を身に付けておいた方が良い」 「……兄、上」 「無理強いはしないがな、私だってもうお前を置いておくことも閉じ込めることもしたくない、ただ傍に置きたい」 先程から“兄上”としか言えなくなっている口が愛おしくて、メフィストは我慢せずに指で撫でた。 アマイモンの碧の瞳が大きく開かれ、次第に水膜を張ってゆく……宝石のような涙が流れる。 「口付けは……してくれないのですか?」 「してもよいのか?」 「はい……兄上なら……」 “兄上”という呼び名と、自分への想い 変革を愛した時の王が永遠に変わらないで欲しいと願うことはそれだけだ それだって時々なら別の呼び名に変わってもいいし、想いがもっと甘く強いものになればいいと思う たった今、兄弟で主従であった二人の関係に“生涯の伴侶”が加わったように END えっと燐くんゴメン 貴方を帰すタイミング失ったけど、もう勝手に帰るといいよ ほんとゴメン |