現状に不満はあるか?と聞かれたら曖昧に笑うしかない。大多数の人間がそうであるように答えはYESなのだけど
、言ってはいけないことのような気がした。
些細なことでも他人の所為にしてしまう人が多いのに、自分の周りには誰の所為でもないと言って己を責める人ばかりで、こちらまで息苦しくなってしまいそう。
そんなに頑張らなくていい、無茶しないで、巻き込まれる此方の身にもなってと叫びたい気持ちがあっても、真っ直ぐに伸びた背筋と力強く踏みしめる足を見れば、この人には何を言っても無駄なのだろうと悟ってしまう。
そんな事を言えばきっとこの人は、自分を置いて独りで進もうとするのだと。置いていかれた自分よりも辛そうな顔をして、綺麗な心に消えない傷を残して。
そんなのってある?貴方についていくのを辞めようと何度も思うのに、貴方はきっと俺ではなく自分を責めて泣くのだと思えば何も出来ない。

貴方が独りでも大丈夫な人ならいいのに、そしたらいつでもこの歩みを止められるのに
貴方が他人の痛みに鈍感な人ならいいのに、そしたらもっと自由に生きられたのに

「やからな」

現状に不満はあるか?と聞かれ正直にYESと答えられたとしよう。でも、その現状を失いたくないと思うのだ。

「俺、なんも後悔してへんよ……」

だから、どうかもう


――泣かないで?





* * *



山は涼しい、なんて風通しの良い木陰でジッとしていればの話。険しい山道を登山グッズと武器を背負って登っている者の頭からは「涼しい」なんて概念は消えうせていた。日差しはきついし湿度が高く汗がだらだらと垂れてくる。

「あち゛ぃー」
「うるさいわね、余計暑くなるでしょ」

体力には定評のある燐も音をあげる程の暑さだった。その後ろで既にクラクラしているしえみに苛々しながら(それでも気遣いながら)歩いていた出雲からすかさず叱咤が掛かる。しかしポケットから塩飴を取り出し燐としえみに渡している辺りが甘い、塩飴は塩分と糖分の塊なのであまり摂りすぎても良くないと聞くけどこれだけ肉体労働しているのだから問題ないだろう。
前から雪男、燐、しえみ、出雲、子猫丸、勝呂、志摩。前からの奇襲に燐が、後ろからの奇襲に志摩が反応できるように雪男が決めた順番だった。一同は静岡県の伊豆市にある天城山、俗に天城越えと言われる登山コースではなく獣道を進んでいた。

「……皆さん、気持ちは解りますが真面目にやって下さい?油断は禁物ですよ」
「ああ解ってるよ」
「すみません」
「頑張ってください、帰りにアイス奢りますから」

今回の任務は、ある上一級祓魔師が契約していた使い魔と喧嘩をし、使い魔が家出をしてしまったのを連れ戻すという、なんとも間抜けな任務だ。人を襲う悪魔を祓うのが目的でないからか皆のモチベーションは低い。隊長を務める雪男も「なぜ上司の尻拭いを僕らが?」という気持ちを人好きのする笑顔の下に隠しながら歩いている。アイス代も経費で落とす気満々だ。ちなみに契約主の手騎士はその使い魔に負わされた怪我で入院、退院後には階級を落とされると予想されていた。

「志摩さんさっきから黙ってますけど大丈夫ですか?」
「え?ああ大丈夫ですよーなんか昔坊と行った山を思い出して……」

たしかクリスマスツリー用の木を探して、竹を持って帰ったのだっけ。あの時もこうして勝呂の後をついて歩いていた。色々思うところは違ってもこの距離は昔から変わらない、楽そうに見えて実はいつも気を張っていなければいけない位置だけど、すっかり馴染んでしまっていた。

(とはいえ、ホンマはちょっとシンドいですわ)

このような文句も、同年代の少年達に比べれば随分マシじゃないかと思うのだが、いかんせん忍耐力のインフレ化が進んでいる祓魔師の世界では根性なしと称される。余裕のある時なら口に出していても本気でツラい今は叱られるのも面倒くさいので黙っていた。とは言え、叱ってくる相手も今は相当まいっている様子で、そろそろ休憩を提案したほうがいいかもしれない。

「ねぇ先生そろそろ休憩しましょうよ」
「そうですね、もう少し行った先に滝があるみたいなのでそこで」
「滝!?マジで!?」

滝と聞いてテンションが上がったのか燐の歩くスピードが上がり雪男と並んでしまった。しかし雪男にジロリと睨まれすぐ後方に下がる。本人に悪気はなくても、すぐ一人で突っ走るところは祓魔師としてマイナスだ。実力があるから、自分一人で解決しようとする。一緒に頑張りたいと思っている人間を拒絶しているのと一緒だ。

「悪ぃ」
「隊を乱さないで下さい……まったく」

兄に呆れながらもGPSを片手にひょいひょい岩場を越えていく雪男。そして登った岩の上から女子二人を軽々と引き上げてしまう燐は、やはり他の生徒達とは違う。数ヶ月共に過ごして知ったことは二人が聖騎士の教えを継いだ者と、魔神の炎を継いだ者だということ。対する勝呂は努力の人だった。血筋には恵まれているけど、それ以上に努力を積み重ねて、今の彼がある。
普通なら、あの兄弟を僻むだろう、自分以上の才能と環境で育った二人を羨ましいと思うだろう。同じ魔神を倒すという目標を掲げる相手なら尚更……だけど勝呂は少しも二人を妬んでいないのだ。
勝呂は、燐や雪男が一人で何でも出来てしまう所なんて気にしていない、ただ一人で何でも背負いこもうとするところを歯痒く思ってる。頼って欲しいと思っている。支えたい、力になりたい。仲間だから、友達だから――努力の人はどこまでも正直で、情の深い人だった。

そして志摩は、そんな勝呂が大嫌いだった。


『キィィィィィィィィィィン!!』


「……ッ!?」

その時、何かの悲鳴のような音が聞こえた。

「この鳴き声……使い魔!?」
「え!?」

雪男の声にしえみと出雲が素早く反応した。緑男と白狐二匹を召喚し、巨大化した緑男に乗り声のした方向へ走らせた。手騎士の才能を持つものとして今回の使い魔のことが気がかりだったのだろう、

「勝手な行動は慎んで下さい!!」

そう叫びながら二人の後を全速力で追いかける雪男、燐、勝呂もそれに続いた。

「探してた使い魔が何者かに襲われたっちゅうことか?」
「そうなりますね」

志摩と子猫丸も走るが、こちらは前を行く五人を視界に留めながら状況を推測している。ちなみに宝はマイペースに着いて来ているだけだ。

「家出しはった使い魔ってたしか中級以上の悪魔やったよな」
「……ですね」

それが襲われたのだと思うと、ゴクリと喉が鳴る。

「とにかく!奥村くんと坊が無茶せんよういざとなったら僕らがストッパーにならな!」
「杜山さんと出雲ちゃんもな!!」

意を決した子猫丸が走るスピードを上げ、志摩はその後ろを神妙な面持ちで追いかける。面倒くさい、もうあの人のお守りなんて懲り懲りだと思いながらもどんどん足は前に進む。



* * *



着いた場所は、先程雪男が言っていた滝の麓だった。

「な……!?」

出雲は目に入った光景に愕然とする。

「なんてひどい……」

次いでしえみが呟く、彼女達が辿り着いた時、宙に浮かぶ一人の女の手によってキキーモラと呼ばれる悪魔が絞殺される寸前だった。

「ちょっとアンタ!!何やってんのよ!!」
『なにを、と申すのか?』

出雲が叫ぶと女は二人を振り返った。言葉の通じる悪魔は厄介だと知っている雪男はすぐに二丁拳銃に手をかけた。

『この者は私の眠りを妨げたのだ』
「だからって、殺すことないじゃない!!」
『殺すのではない、食べるのだ』
「え……?」

食べると聞いて二人の顔が蒼く染まる。人を食べる悪魔はいても同胞である悪魔を食べる悪魔を見たことはない。

『私はこの山の神、嘗ては人間の信仰によってこの山を統制していたが近年私を信仰する者も減ってな……統制する力が無くなってしまった』

かと思うと急に苦労話を始めた。

(クロみたいなもんか……)

雪男は銃を持つ手を緩めた。まだ疑わしいがもしこの悪魔の言う事が本当なら倒すわけにはいかない。山の神を殺すこと、即ちそれは山を殺すことになるからだ。一度神を失った山を再び栄えさせるのに一体何年かかるだろう、一端の祓魔師が償いきれる罪ではない。

『今は眠ることで英気を養っていたのだが……こいつがそれを邪魔した』

そう口にした瞬間、女悪魔の顔が怒りに染まり、その瞳が赤く光った。キキーモラを締める白い糸の力が強まり『キーキー』と苦しそうな声が漏れる。

「やめてください!!」

見ていられず叫ぶしえみ。

「その子のしたことは謝ります!!どうか許してください!!」
『駄目だ……コイツを食えばまた少し力が戻る……そうすればまだ私はこの山を』

雪男も叫ぶが女悪魔はどこか哀しげにそう言ってキキーモラを締める力を緩めない。本当は同胞の悪魔を食したくはないだろうに。それを見て勝呂はギュっと眉間に皺を寄せた。勝呂が明陀宗の者全ての命を背負っているように、女悪魔はこの山の命全てを背負っているんだろう。それでも、あの使い魔が殺されることは間違っている。眠りを妨げたくらいのことで、他の者を犠牲にして守ったとしても山が穢れるだけ。一度失った信仰を取り戻すのは難しいと痛いほど知っているけど、だからこそ諦めて欲しくなかった。

「それなら!もう一度信仰してもらえるように頑張ればええやろ!!ただ寝てるだけで信じてもらえるなんて虫のええ話あるかい!!」
『……』

ジロリと、女悪魔の目線が勝呂へと注がれた。すかさず志摩と子猫丸がわきを固める。

「お前から人の心が離れてしまったことはもう仕方ない、でもソイツらに戻ってきてもられるような努力をお前はしたんか!?しとったとしても、無関係の奴を喰らうなんて許されることやない!!」

今殺されようとしているキキーモラは自分達から見ても沢山いる悪魔の中の一匹でしかない、ただそれは誰かの大切な使い魔だ。悪魔を祓う祓魔師が何を言っているんだと思われるかもしれないが、人間のエゴなんてそんなものだ。それに勝呂が怒っているのは使い魔を食べようとしていることだけではなかった。

『無礼な……私は神だぞ?』
「うっさい神なら諦めんな!!祠を壊されたわけやない、棲家を失ったわけでも、攻撃されたわけでもないやろ!!それなのになん……!!?」

勝呂の言葉を全て聞く前に女悪魔の手首から白い糸が放たれる、まあ悪魔にしてはよく聞いてくれていたものだ。勝呂に襲い掛かったそれを咄嗟に前に出た志摩の錫杖が受け止めるが、粘着力がある糸に引っ張られてしまう。

「ひぇ!?」

そのまま一本釣りの要領で宙に浮かされた志摩は滝壺の方へと投げられる。志摩が落ちた場所がバシャンと水柱を立てた。

「志摩!!?」
「志摩!!」
「ちょ!兄さん!!」

その志摩を助けようと燐が滝壺に飛び込んだ。重い錫杖を持ったままでは泳げまい、でも志摩はどんなに混乱していてもそれを手から放すことはしない。

「奥村!志摩を頼んだで!!」
『何をよそ見している……』

女悪魔の目がもう一度赤く光り、手首から発射られた白い糸の塊によって全員の足が地面に固定される。

「チッ!!」
『させぬ』

銃を構えた雪男の手にも同じものを撃ち、封じられた。

「……この技、女郎蜘蛛か!!?」

女郎蜘蛛と言えば蟲の王ベルゼブブの眷属で上級悪魔である。そんな相手に上二級祓魔師と候補生だけで太刀打ちするなんて無謀だ。

(でも、やらなきゃ……やられる!!)

山の神を倒せば正十字騎士團からどんな罰を与えられるか解からないが、教師として生徒達を殺させる訳にはいかなかった。

『……お前は、まだ若いな』
「なんや?」

女郎蜘蛛は瞳を悲しげに細め、勝呂へ静かに語りかけ始めた。

「ガハッ!ほら、志摩しっかりしろ」

その時、滝壺から志摩を抱えた燐が顔を出し、志摩もげほげほと咳をして意識はしっかりもっている様だ。勝呂はついそちらを見て、安堵の息を漏らす。女郎蜘蛛も泳いで岸まで上がってくる二人をどこか遠い目をして見詰めていた。

『あの者が大事か?』
「え?」
『私にも嘗てはあの者のように私を慕ってくれるものが沢山いた』
「……」
『でも皆、私を見限り、私のの元を離れていった……』
「女郎、蜘蛛……」

静かに語る悪魔の、その瞳がとても切なく、勝呂は先程聞いたばかりの名前を呼んだ。

『まだ失っていないお前に、私の何が解かる』
「!!?」

美しかった女郎蜘蛛の声が禍々しい響きに変わり、その姿も少しずつ蜘蛛の化け物へと変貌していく。

『真に大事な者を失ったことがないくせに、解かったような口をきくな!!』

八の目が全て赤く光ったかと思うと、口から発せられた白い糸が勝呂全身を繭のように包む。

「坊!!」
「勝呂くん!!」

岸に着いたばかりの志摩も、その瞬間を全て見てしまった。大嫌いな蟲の悪魔よりも強烈な光景。

「ぼ、坊……」

濡れた身体を立ち上げ、すぐさま勝呂の元へ駈け出した志摩とは反対に燐は女郎蜘蛛の元へ飛んだ。

「テメェ!!勝呂に何しやがった!!」

飛びながら空中で降魔剣を抜き、額に青い焔が出現する。

『若君!?』

青い焔を見て、身体を震わせた女郎蜘蛛。燐の剣撃を寸での所で避け人型に戻る。

『若君……ちょ!お待ちください若君!!』
「うっせぇ若君って言うな!!」
「兄さん待って!!様子が可笑しい!!」

戦意を消失させた様に見える女郎蜘蛛に対しても攻撃を緩められないほど興奮していた燐は、雪男に言われ漸くその手を止めた。

『申し訳ありません』
「……」

地面に平伏し急にしおらしくなった女郎蜘蛛を前に燐は降魔剣を鞘に収めた。悪魔から若君と言われるのは好きではないが、それによって闘わずに済むのなら辛抱できる。

「とりあえず勝呂と使い魔を解放しろ」
『……若君に言われたのなら仕方ありませんね……解かりました』

そう言うと、キキーモラを絞めていた白い糸がシュルシュルと解かれる。地面に落ちたキキーモラは「キッ!」と声を漏らしぐったりと動かなくなった。慌ててしえみと出雲が回復させに向かう。

「勝呂もだ」
『ええ……今すぐに』

と、言うと女郎蜘蛛は立ち上がり天に向かって糸を伸ばした。何もないところで止まった糸に捕まってブランコの様に揺らし、滝の上まで飛びあがる。
その間、勝呂を包み込んでいた白い糸の塊も一本一本ゆっくりと解かれていく。それを見て皆、安堵を覚えていたが、だんだんその塊が小さくなる程に表情が凍ばっていった。もうそろそろ現れても良い頃なのに勝呂がその姿を現さないのだ。

「坊……?」

この時も、志摩は勝呂の一番近くにいた。生まれてから十六年あまりずっと近くにいた。本当に幼い頃は何も感じず、ただ当然のように其処にいた。
変わっていったのは明陀から門徒が徐々に離れ始めてからである。人々が明陀を祟られた寺だと囁いていることを知った。
跡取りである勝呂も謂われない中傷を受けるようになったが勝呂はそれに負けなかった。離れていった皆がまた戻ってくるように努力し続けた。
歳をとるにつれ、志摩はそれを煩わしく感じた。もっと器用に生きられないものかと歯痒くなったのは一度や二度ではない。常にだ。
まっすぐ前を向いて進む勝呂についていくのは骨が折れる。本当に骨折しても心配されるのは勝呂や子猫丸ばかりで、誰も志摩のことなど気に掛けなかった。座主の一人息子と僧正の五男とでは命の価値が違うのだと思い知った。
周囲からの重圧が重かった。自分を庇って死んだ兄など、志摩家の役割など、そんなもの自分は知らない。関係無い。明陀も血も恩も全てが自分には重かった。なにもかも、消えてなくなってしまえばいいと思った。そして、

――坊さえいなければ楽になれるのに……
いつしか、そう思うようになっていった。

「勝呂くん……」
「……」

愕然とするメンバー。繭のような糸が全て解かれた時、そこから現れたのは

――黒と金色の美しい蝶だった――


ざぁざぁと水音の響く空間に滝の上から、涼やかな声が落ちてくる。


『ほら……解放、しましたよ』

クスクスと笑う声に腹が立ち燐は其処を見上げるが、もう其処に悪魔の姿はなかった。


「坊、そんな……嘘や」

ガタガタと足を震わせながら、ゆっくりとその蝶に近づく志摩。彼は虫が苦手じゃなかったか、なんて指摘する者はいない。だってアレは只の虫じゃないのだ。
一羽の蝶はぱたぱたと風に揺れながら志摩の掌の上に乗った。そして慰めるように志摩の顔をじっと見つめる。皆、理解した。これは確かに“勝呂竜士”であると。

「坊、嘘や、そんな……なんで?」

志摩は掌の蝶を潰さないようにそっと包んで額をそこに寄せる。涙は流れない。全身が水で濡れている。


「イヤや!こんなん……誰も望んでへん!!」


未だ冷たい水の流れる喉から絞り出されたのは、どんな致命説よりも、心を抉る声だった。





――現状に不満はあるか?

――そう問うのは悪魔


――そうか、それなら……

――願いを叶えるのは神






つづく








はいモブ悪魔が出張ってすみません。
キキーモラちゃんかわいいよキキーモラちゃん!!諸悪の根源の彼女ですがきっと下らない理由で家出しちゃったんですよ!!
あと坊を蝶々さんにしちゃった女郎蜘蛛ですが彼女にだってちゃんと良い所もあるんです……たとえば特撮の悪役並みに主人公側の台詞が終わるのを待ってくれるっていう……