宙をぱたぱたと飛び回る姿を見ていても普通の蝶と見分けはつかないが、縁だけが黒い金色はまるで勝呂の髪色を表しているようだった。
突然の幼馴染の変貌に普段は飄々としている志摩も流石に動揺している。人間自分より動揺している他人を見ると逆に落ち着くのか同じ幼馴染である子猫丸は何も言わず傍に寄り添っていた。それでも時より悔しそうに表情を歪める姿に周囲はどう声をかけていいのか解からない。でも、そんな二人を慰めるように鼻先や指先にそっと留まる蝶を見て、沸々と怒りが沸いてくる。女郎蜘蛛は勿論、勝呂にも、勝呂を助けることが出来なかった自分自身にも。
混乱したまま「大丈夫ですよ!坊、すぐ元に戻りますからね?」なんてそっちが大丈夫かと聞きたくなる顔をしている志摩の肩を叩いて、燐はそっと勝呂を指にとめた。

「あ……」

どこに連れて行くの?と不安げに揺れる二つの瞳に優しく微笑んで、そのまま弟の元へ向かう。雪男は聖水の入っていたコルク瓶を川水で良く洗い、コルクに数箇所穴を開ける作業をしていた。勝呂にはその中へ入ってもらい連れ帰ろうとしているそうだ。

「ごめんなさい、危ないからこの中に入っていて下さい……」

雪男に言われて素直に瓶の中へ収まった勝呂にどうやらこちらの言葉が通じるのだと気付く、せめてもの救いである。

「……無事とはいきませんでしたが任務終了、急いで学園に帰りますよ」
「ああ、早く帰って勝呂を元に戻してもらおうぜ」
「うん」
「そうですね」


消えてしまった女郎蜘蛛を追うよりそちらの方が早いだろう。もう使い魔を探す必要もないので帰りは道路から一気に山を下った。山全体を正十字騎士團が立ち入り禁止にしていたからバスは使えなかった。観光地と呼ばれる浄蓮の滝だったのに人がいなかったのはその為かと、とりとめもなく考えながら歩いていく。
帰還した雪男は一番ベテランで信頼できる医工騎士に勝呂を預け、とりあえずキキーモラの契約主である祓魔師にキキーモラを返し、笑顔で嫌味を小一時間言い続けた。塾のメンバー達には自室待機を命じていたが皆、医工騎士の部屋の前で勝呂の容態が解かるのを待っていた。よく喋る志摩や燐も邪魔をしないように静かに座り込んでいた。


「これは呪いの一種なので薬では解けませんね」


そして、ようやく部屋の扉があき、待ち構えていた塾生達に医工騎士が告げた言葉はあまりに残酷だった。


「とはいえ方法がないわけではない」
「本当ですか!!?」
「祓魔師の中じゃ有名な話だからな、昔、女郎蜘蛛に姿を変えられて元に戻った者が居た筈だ」
「その人はどこに」
「残念ながら百年以上前の話……しかし確か本部の方に記録が残っていたと……」
「ッ若先生!!」

名前を呼ばれた雪男は頷くと、踵を返し本部へ連絡を入れる為その場を後にした。元に戻った者が居たと聞いて僅かだが希望が見えてきた。



* * *



女郎蜘蛛は有名ではあったが希少種である為に残されている文献が少ない。ただ以前同じように姿を変えられた者の記録が残っていたのでそれを読むことが出来た。まず姿を変えられているうちの食糧はその姿に相応しいもの、蝶になった勝呂なら砂糖水でいいだろう。五感は人間の時と同じようにあるということ、怖いのは日が経つにつれ少しずつ人間としての意識を失っていくそうだ。意思の疎通が取れるうちに術を解いてしまいたい。
それに書かれていた女郎蜘蛛の術を解く方法は二つ、一つは他の悪魔同様に『術者である悪魔を殺すこと』だ。だが信仰は薄れたといっても今も山の神と祀られている女郎蜘蛛を倒すことなど日本支部が許す筈もなく、また被害者である勝呂もそれを望んでいないだろうということで、それは却下。燐達はもう一つの方法で勝呂を元に戻すことに決めた。

それは『強く望むもので諦めてしまっている願いが叶う』というもの。お姫様のキスで元に戻ると同じくらいファンタジーである。

「てか勝呂が諦めてしまっている願い……」

そんなものあるのだろうか?あそこまで“諦める”の似合わない男もいない。寺の再興だって、魔神を倒すことだって諦めずにいる勝呂に諦めなければならないことなんてあるのか、想像もつかない。

「ひょっとしたら自分のことやないのかもしれませんね」
「え?」
「自分次第でどうにかなりそうなことなら坊は諦めません、でも他人に望むものなら諦めてしまっていることもあるかも」

理想が高い人だけどソレを他人に押し付けるほど傲慢にはなれないから。きっと他人にそうして欲しいことじゃないかと思います。と子猫丸が言う。

「それ余計わかんなくねえ?」
「いや、そうでもないで……あの人が望みそうなことをしていけばええんやろ?」

志摩は考えるポーズをとって、ふと顔を上げた。

「下手な鉄砲も数打ちゃ当たるって言うし、俺やってみますわ」

そう宣言する志摩の頭の周りで、なにか言いたいことでもあるのか勝呂は忙しなく舞っていた。



* * *



その日の夜から、

「そういえば坊、俺の部屋をもっと片付けろって言ってたな」

そう言って志摩は、部屋を掃除し、エロ本やAVの類も全て処分してしまった。

「そういえば坊、毎朝走る道に花が咲いてたら綺麗やろなって言うとったわ」

そう言って志摩は、メフィストに許可を得て勝呂のジョギングコースに色彩りの花を植えていった。勝呂が出かける時間に一度も目を覚ましたことないくせにコースを把握していたのかと子猫丸は驚いていた。

「奥村くん、一緒にテスト勉強しようや」
「うげ!……わかったよ、わかったからその瞳やめろ……」

そして現在、そう言って旧男子寮の食堂で燐と肩を並べ雪男に勉強を教えてもらっている。勝呂は志摩と燐の成績についても頭を痛めていたので(燐に対しては雪男が頭を痛めているのを見て気の毒に思っていた)ひょっとして良い点数をとれば元に戻るかもしれない……もしそれが勝呂の願いだったら彼はどれだけ心配性なのだろう。

勝呂は窓際に置かれたメフィストお手製の結界虫籠の中で見守っていた。

「……無理しすぎですよね」

窓際に向かって雪男がぽつりと零した言葉は志摩と燐には届かなかったが、燐も概ね同じ気持ちでいた。この一週間で志摩は勝呂が不満に思っていそうな自分をどんどん変えていっている。もともと優秀なので真面目にすれば器用になんでもこなせるものだ。どうして今まで本気出さなかった!?と子猫丸が嫉妬やら何やら複雑な感情を抱くくらい志摩の変貌は激しかった。学校や祓魔塾の勉強をサボることなく、女の子を追いかけることもなく、“めんどうくさい”とも言わなくなった。

「志摩くんは優しいですよね」

今まで軽薄でいまいち信用できないと思っていた志摩の印象が一気に良いものとなった。燐が魔神の落胤だと露見した後も一番初めに友達として接してくれた存在なので感謝はしていたけど、こんな風に他人の為に必死になる姿を見たことがなかったから。

「若先生の方が優しいわ……坊の分までノートとってあげてるんやろ?」
「え?まぁそうですけど、そんな大したことじゃ」

クラスでは勝呂は家の法事で実家に帰っているということにされている。参加は出来なくても話を聞く事は出来るのでメフィストから虫籠に普通の人には見えない魔法をかけてもらって雪男の机の上で授業を受けていて、自分じゃとれないノートを雪男にとってもらっていた。

「うん、それを大したことじゃないって思っとるとこが優しい」

本当に優しい人は自分のようにワザとらしくないと志摩は自嘲する。勝呂の理想はきっと自然と他人の為に動ける人だから、と。
対する雪男もこんな屈託なく「優しい」と言われたのは初めてだった。女の子は少し気遣うだけで雪男に「やさしいね」と言うけど過大評価されているようで素直に受け取ってこれなかったから、志摩にそう言われて急に照れ出した。

(あー……まさかこの二人に和まされる時がくるとは)

先生役が照れに照れている所為で勉強が中断してしまい、燐は丁度喉が渇いたからと冷蔵庫へ飲み物を取りに行った。この間、志摩は心ここに在らずといった様子で天井を見詰めている。最近こんなことが多い。雪男とソーダ水、勝呂には砂糖水を持ってテーブルに置くと志摩が虫籠を開けてそっと指を添える。同じテーブルに運ばれてくる勝呂を見ながらまだ人間としての意識を保っていることに安心する。燐は大きく息を吸った。シュワシュワと弾けるソーダ水の匂い、砂糖水の匂い、夕食の残り香、クロや雪男の匂い、そして虫除けをしなくなった志摩の身体からは志摩本来の匂いがした。ピンクの毛先に乗る金の蝶はもっと近く感じているだろう。

(……志摩は、勝呂をあんま好きじゃないと思ってたんだけどな……)

ここ一週間の彼の態度を見れば認識を改めざるを得ない。勝呂が蝶にされてしまって一週間経つが、彼から感じられるのは、知らない土地で迷子になった子供のような“不安感”そして夜泣きに起こされ続けた母親のような“焦燥感”だ。相変わらずへらへらと笑っているけど、顔の貼り付け方が以前より雑で、塾生達だけでなく彼と仲の良い女友達からも心配されるくらいだ。

(早く、元に戻れよ……勝呂)

コップを口に当てながら、砂糖水を飲む勝呂に心の中で話し掛ける。現実を勝呂の理想に近づける為に燐も出雲も問題を起こさなくなったけど、宝も少し協力的になってきたけど、足りないんだ。燐が失敗して、出雲がそれをからかって、喧嘩になって、勝呂の怒鳴り声がして、志摩がそれを見て笑って、子猫丸がはらはらしてて、宝は無関心で、しえみが穏やかに見守っている。全然まとまりのない教室がもう懐かしく思えてきた。

旧男子寮から帰る道すがら、街灯に蛾がぶつかっているのを見た。その下ではカナブンが死んでいる。志摩はそれを怖いと思った。悪魔なんかよりずっとおぞましい。そちらを意識しないように数メートル以上離れて歩いた。胸にしっかりと勝呂の入った虫籠に抱えたまま。
もし、このまま勝呂が蝶になってしまったら、どうしよう……人間の意志を失った時に逃げ出したら、と思うと先程の比ではない恐怖が襲った。塾生達のことも忘れて、自然に還って、その時に沢山の虫の中から彼を見付けだすことは、きっと可能だけど。

「なぁ坊、勝手にどっか行かんでな」

怖い、花弁のように薄い羽も華奢な胴体も糸のような手足も、風にあおられ容易く飛んで行ってしまうところも、どうしようもなく不安にさせる。
あの鍛えられた腕を思い出す。逞しい背中が恋しい。振り向いて自分を呼ぶ、優しい声。

全部、全部、煩わしくて嫌いだったのに――


「どうしてもうたんやろなぁ……俺らしくもない」


そう、そんな自分に一番驚いていたのは志摩だった。勝呂のことを人間としてイイ奴なのは判っていたが、イイ奴すぎて自分には合わないなと思っていた。勝呂さえいなければ自由になれると思っていて、もしこの先勝呂が死んでしまっても、そりゃあ哀しいだろうけど、同時に自分は漸く解放されるのだと思っていたのに、今のこの気持ちはなんなのだろう?

――解からない――最近の志摩の頭の中に浮かぶのはそればかりだ。



* * *



勝呂が蝶にされて二週間、もうこれ以上は隠しておけないとメフィストは学園に京都支部の支部長、志摩八百造を呼び出した。

「な……坊?」

変わり果てた勝呂を見て八百造は解りやすく狼狽する、幼い頃から勝呂に何かある度にこんな顔をする父を見ては内心で呆れていたのに、今は何も言えない。女郎蜘蛛に姿を変えられた勝呂を見た時の自分はもっと酷い有様だったからだ。雪男から説明を受けながら青褪めていく父に、罪悪感が募ってゆく。京都に帰って報告すれば女将や和尚も同じ顔をするのだろうか。

「全ては僕の責任です!申し訳ありませんでした!!必ず勝呂くんを元に戻してみせますから!!」

深々と頭を下げる雪男を見て、違うと首を振る。あの場にいて守りきれなかったのは志摩だ。それどころか足手まといになった。燐が自分を助けるために滝壺に飛び込んだから、その隙に勝呂はやられてしまったのだ。

――俺が悪い、イヤ悪くない、坊が悪魔を挑発するようなことを言ったから、俺は悪くないやろ?坊が勝手なことしたから……。そうや、あの人はいつも……俺らの気も知らないで。コレを機に少しは省みればええ……

どうせ八百造が叱るのは自分なのだ。勝呂が悪くても、どうして止めなかったのだと怒られる。理不尽だが、その理不尽にも慣れてしまっていた。話を終え、自分達の元へ進んでくる。ああ殴られるのだろうと志摩は歯を食いしばり訪れるだろう痛みを覚悟した。

しかし次の瞬間、感じたのは痛みではなく。ふわりとした温もり。

(え?)

志摩が自分と子猫丸が八百造に抱きしめられていると気付くのに数秒は要した。

「今回は大変やったな、お前ら」
「おとん?」
「八百造さま……?」
「坊と同い年だからってお前らに任せっきりで、いつも苦労かけてスマンと思うとる」

なんだこれは?父が、志摩家の当主が何を言ってるんだ?――抱きしめられる二人は混乱していたが、八百造は二人から身を離すと、強い意志を宿した瞳で志摩を見詰めた。

「大丈夫やで、廉造!坊が元に戻るように明陀も全力で協力する」
「……」
「大丈夫、皆で力を合わせればなんとかなるて……教えてくれたんはあんさんらや」

不浄王の時のことを思い出してか、感慨深く頷いて、八百造が再び廉造を抱きしめた。

「坊のことはホンマ大丈夫やから少し休み、いざという時に体が動かんかったら志摩の名折れやで」
「でも……」
「お前は頭悪いんやからグルグル考えとっても無駄や、そんなんは子猫や蟒に任せとけばええねん、お前の役目は坊を仇成すもんから命懸けて守ることやろ」
「はは……酷い、おとぅ……」

それが出来んかったから今こうなっとるんやんか……、と言いながら志摩は八百造の胸に身を委ねる。いつぶりだろう、父に抱かれて眠るのは。

「大丈夫、明陀は坊を守るお前ごと守ってくれるから……けして坊や、お前らの努力を踏み躙るようなことはせえへん」

すっかり眠りに落ちた志摩の背中を撫でるの手は父親のもので、燐や雪男はつい神父のことを思い出してしまった。

「志摩さん……やっぱり疲れてはったんですね」
「私達の前でも無理して笑うから心配だったんだよ」
「……志摩」

起きてる時には掛けられないような優しい声が、疲労しきった体に降りかけられていく。家族が構ってやれなかった分、息子はいい友を持ったと八百造が苦笑していると、メフィストが神妙な顔をして問いかけてきた。

「どうして志摩くんが寝れていないとわかったんですか?」

それには自信を持ってこう答える。

「親ですからね、顔を見ればわかります……」

親だから……そうだ、早く京都へ帰ってこのことを勝呂の両親に伝えなければ、出来るだけ深刻にならないように等……無理な話だろう。八百造は志摩を燐に預けるとそのまますぐに帰ってしまった。息子の周囲を心配げに飛んでいる蝶を複雑に見詰めながら。



* * *



八百造が帰って二週間、勝呂が蝶にされて一ヶ月。その間、志摩がどんなに自制しても、優等生になっても勝呂は元に戻らない。好い加減我慢の限界だ。
職員室で勝呂のクラスの担任はこれ以上授業にでなければ進学も難しいかもしれないと言っていた。それを偶然聞いてしまった。なんてことだ。
勝呂が留年?あんなに真面目に勉学に励んで、進学校である正十字学園の奨学生にまでなったのに、その勝呂が留年するなんて、

「……ふざけんなや」

勝呂の夢の為。

――どんだけ、俺が犠牲になってきたと思ってるんや

明陀の皆の為。

――どんだけ、坊が努力してきたと思ってるんや

「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな!!」



その夜、志摩の中でなにかがキレた。



* * *



翌朝、燐は子猫丸からの電話で目を醒ました。


『奥村くん!大変や!志摩さんがおらん!!貯金通帳とかも無くなってはる!!』


――ひょっとして一人であの女郎蜘蛛のとこに行ったのかもしらん!!



その後まもなく塾生全員が理事長室に呼び出された。






続く




……なんかコレ勝呂くんの片想い話って設定だったのに志摩くん必死過ぎて勝呂くんの片想いに見えないという……
いや、これ実は勝呂→→→→→→(←)志摩なんですよ?蝶々故にむっつりさんですが心の中ではデレてますから坊!タイトル「惚れて舞うやろ」にしようか迷ったくらいですから(笑)
次は勝呂くん視点の話になります。私がいかに坊に夢を見ているかわかる内容になりそうです