始めから独りでは立っていけないと解っていた。独りで進んで行く気など毛頭なかった。皆が明陀に戻ってきてくれるよう、もう離れていかないように、しっかりした大人になろうとした。その為に出来る努力は惜しまなかった。 誰からも頼られる寛大な心を持とう、誰よりも働けるよう健康な身体を作ろう、皆を守れるよう強くなろう、力不足を補えるように知恵をつけよう。そしたらきっと皆ずっと傍にいてくれる。 そんな風に、ただただ人を繋ぎ止めておける自分になろうと必死で、一番近くにいた存在が何を望んでいるかきっと見えていなかった。 ――なぁ志摩お前は俺の束縛が、ずっと窮屈でしかたなかったんやろ? 鬱陶しい、熱苦しい、面倒な人……ずっとそんな瞳で見てきたじゃないか、それなのに、なんで。 ――そんな泣きそうな顔しとんねん 「坊!坊!大丈夫ですよ!すぐ元に戻れますから!」 虫とくれば甲虫だろうが蜻蛉だろうが天道虫だろうが苦手にしていた志摩の手が、蝶になった勝呂を優しく包んだ。 「見てください!坊!九十点台なんて小学生ぶりにとりましたよ!」 今まで何を言っても真面目に勉強しなかった志摩がテストで良い成績をとった。 「勝手にどっか行かないでくださいね」 不浄王と戦う時にも見せなかった不安を表に出した。それは今の自分があまりに不甲斐無いからだと解っていても、心は震えた。 ――なあ?お前……俺のこと嫌いやなかったんか? * * * 八百造のお陰で志摩の不眠症が改善された次の日のこと、祓魔塾にこの前のキキーモラと契約主である手騎士が現れた。手騎士はまだ怪我が治っていないのか車椅子に乗っていた。その人が教室のドアを開いた瞬間シンと静寂が訪れる。 「どうしたんですか?もうすぐ授業が始まるんですけど?」 静寂を破ったのは雪男で、その冷たい瞳が車椅子の男を見下ろす。すると男は恐縮そうに目を伏せて言った。 「すまない、少しだけ私に時間をくれないか?」 「……用件は何でしょう?」 それによって判断すると言外に告げる。上司に対しする態度ではないのは雪男が彼に怒っているからか。すると突然ガタッ!と椅子の引かれる音が響き、皆そこに注目した。 「すんません……ちょっと席外しますわ」 「志摩さん……僕も、授業までには戻ってきます」 顔を見せないまま志摩は教室を出て行った。女郎蜘蛛に遭ってしまった原因の悪魔と手騎士の顔なんて見たくないのだろう。子猫丸はそれに加え此処にいてはつい責めてしまいそうだからと志摩の後について行った。勝呂は虫籠に入っていて二人の後を追うことは出来なかった。 「はぁ……それでご用件は」 中断していた会話を再開させる。 「雪男くん、その前にこの間の件を君達にもう一度謝らせてくれないか?」 「別に、貴方が謝る必要はありませんよ、あの任務での出来事は全て僕の責任ですから」 それに一番怒っている二人はたった今退室してしまいましたし。と淡々と述べる雪男。あれは他の誰でもない自分の失態なのに雪男に責任を負わせてしまっていると勝呂は深く後悔したが、今の彼には皺を刻む眉間も低く唸る喉も無い。 「本当に貴方の所為じゃありませんよ」 「……」 心労が多く、つい八つ当たりをしてしまっていたが、手騎士があまりに深刻な顔をしているものだから、もういいかと雪男は穏やかに微笑んで見せた。だいたい、いくら迷惑を被ったと言ってもこの人は年上の上司なのだ。 「それで、本当にどうされたんです?」 「実は奥村燐くんに」 「兄さんに何の用があるんですか!?」 しかし兄の名を出されると軟化させた態度が一気に鋭いものへ変化した。奥村雪男は奥村燐のに関しては神経質になり過ぎるきらいがあると聞いていたが、こんなに解りやすいとは、と怯えるより先に感心を抱く手騎士。そのままバツの悪そうに顔を顰める雪男の斜め後ろあたりに立っていた燐に話し掛ける。 「ああ奥村燐くんに頼みがあるんだよ」 「俺に?」 「ああ……申し訳ないんだが、コイツの言葉を通訳してほしい」 そう言ってキキーモラを指さす。意外な用事に燐は驚いていたけど、雪男の方は一瞬傷付いたような表情をした。兄の悪魔の力を利用されるようでイヤなのだろう。斜め後ろの位置からじゃお互いの表情は解からないから、気持ちは伝わっていないのかも知れない、虫籠の中から眺めるだけしか出来ない勝呂はもどかしさを感じた。実の兄弟だって理解できない感情は沢山ある、たとえば自分の幼馴染は兄弟姉妹に恵まれているのに、家族の愛に気付いていない節があった。 長兄は亡くなり、次兄には責任があり、歳の近い三男四男には上手く甘えられない。彼が生まれて一年後に青い夜は起こったのだ。あの家にとって嘗つてない激動の中で育ち、家族の想いも家族への想い触れることなく流されていったのだろう。だから先日の父の言葉にあれ程の効果があったのだ。志摩本人は器用に全て熟しているつもりでも、そういうところに不器用さが残っている。 ――かわいい奴やんか…… ここ最近の志摩の様子を思い描いて、勝呂は心底そう思った。人間の身体だったら頬が紅潮して鼓動が早くなっていたに違いない。だって志摩の事もともと可愛いと思っていたのが更に可愛くなってしまっているのだ。男の志摩をそう形容するのは若干違和感があるが勝呂から見たらそりゃあもう可愛いったら可愛かった。 思えば幼い時から、志摩が小さい手で一生懸命雑巾を絞っていると胸がときめき、顔に泥を付けながら大きい胡瓜がとれたと笑う顔にこちらまで嬉しくなり、境内でぼうっと空で眺めているのを見ると微笑ましくなり、兄と喧嘩したと言って泣きついてくれば涙が止まるまで慰めてやりたくなったし、それでも厳しい修行中にはけして涙を流すまいとしているのがいじらしくて堪らなかった。 好きなのだ、勝呂は、志摩の事が、それはもう宇宙を越える程に。 「どうして俺にそんなこと頼むんだ?」 燐の声を聞いてハッと思考回路から戻ってこれた勝呂。蝶でいる内はどうせ聞いていても聞いていなくてもバレないが真面目な性格は、目の前の光景を無視して自分の思考に浸る事を良しとしない。 「戻ってきてくれたのはいいのだけど、どうして家出されてしまったのか何度考えても解からなくて……理由を聞けばこれから私も気を付けられると思ったから」 「そうか……わかった」 あの手騎士は使い魔がまた離れていってしまわないように自分に悪い所があるのなら直したいと言っているんだ。勝呂にはその気持ちがよく解かる。 「てなわけだ。なあ?コイツがお前の気持ち知りたいっていってるんだ。教えてくんねえかな?」 先輩祓魔師をコイツ呼ばわりして中級悪魔に気安く話し掛ける燐は自覚はなくとも自信があるのだろう。不躾とも言える態度が羨ましくもあった。キキーモラが「キーキー」鳴くのを時折頷きながら穏やかな表情で聞いている燐、もしもこの人が魔神の跡取りにされてしまってもきっと優しい王様になりそうだとキキーモラは思ったのではないか。 「わかった……今言った事そのまま伝えるぞ」 燐はくるりと手騎士の方を向き、口を開いた。 “貴方と契約してもう十年が経ちますね” “私は使い魔としてずっと貴方を守ってきました” “十年間、貴方はずっと私の前を進んで行きました” “そして一度も振り返ることはありませんでした” “私が付いてくるのを当然みたいに思っていたのでしょう?” “だって契約がありますもの、確かめるまでもないですよね” “でも、それでも……私は振り向いてほしかったです” “一度でもこの手を引いてくれたことはありますか?” “一度でも「傍にいてほしい」と言って下さったことはありますか?” “私と貴方は契約しているから、貴方がどう思っていようと関係なく貴方を守り続けなければいけません” “たとえ本当は必要とされていなくても” “ねえ、私のこと要るのですか?それとも要らないのですか?” “私は貴方にとって沢山いる他の悪魔と同じ価値なのですか?” “私はずっと貴方に呼ばれているつもりでした” “でも本当は勝手に傍にいるだけの存在だったのでしょうか?” “貴方はいつも私の意志を尊重すると言っているけど、それは私がいつ貴方から離れてしまっても構わないという意味ですか?” “私のこと本当はどう思っているんですか?” “はっきり言ってくれないと……” 「――って、そっからの声は小さすぎて聞き取れなかったけど、だいたいこんなこと言ってたぜ?」 燐の長い台詞が終わった。酷い棒読みだったけど、聞いていて胸が痛かった。 「そうか……こいつはそんなことを」 瞳を伏せた手騎士の口元が弧を描き、己の使い魔を愛おしげに見上げた。 「すまなかったな、私は、私がお前に相応しい契約主になるまではお前に何か求めてはいけないと思っていたんだ」 『キィ?』 「お前なら解かっていてくれると、待っていてくれると思っていたが、とんだ傲慢だったな」 なぁキキーモラ、優しい声がそう呼ぶ。 「私はお前が必要だよ、他のどんな悪魔よりも一番だ。これからも私の使い魔として、ずっと共に闘って行ってほしい」 嘴のついた狼のような顔をしているキキーモラの表情がどこか嬉しげに動いたのを見た。人と悪魔との間にこんな絆があるのかと、同じ手騎士の才能を持つしえみと出雲はじっと熱い目線を送っている。 勝呂はこの姿になったことを初めて良かったと思った。だって人間の身体だったらきっと泣いている。自分達に置き換えて。 志摩や子猫丸がこのキキーモラのような気持ちだなんて思わないけど、自分はこの手騎士に似ている。意地やプライドが邪魔して本当の望みを口に出してこなかった。皆の支えが必要な癖に、宗派の長として相応しい人間になることが先だと独りで突っ走り過ぎていた。 ――アイツに嫌われて当然やったな もう今更遅いのかもしれない。元々そんなつもりは無かったけれど、志摩の心を自分のものにするなんてもう不可能に近いだろう。意外と情深い志摩は想いを告げれば真摯に受け止め、真剣に悩むだろう。勝呂を傷付けまいと無理をして付き合おうとするやもしれない。そんな屈辱的なことはあるか?志摩にとっても、勝呂にとっても。 それなら、どうすればいいかなんて簡単だ。愛おしい人をこれ以上苦しめる前に諦めてしまえばいいのだ。志摩を解放してしまえばいい。お互いが傷つかない為に、明陀の為にも……。ああ、自分が諦めてしまっている願いとはコレだったのか。 ――だから、お前が変わることなかったんやで……志摩 不真面目で嘘つきな志摩に呆れているのは本当でも、変わって欲しいとは思わなかった。勝呂は志摩なら何でも好きだ。たとえば敵になっても、悪魔になっても好きだ。志摩が勝呂を嫌いでも勝呂はずっと志摩が好き。全てを信じることが出来なくても、ゆるされる事じゃなくても、ずっとずっと愛していられる。 たとえこの先、志摩が壊れてしまっても、勝呂は一生愛し続けられる。 そう、だから……もし現状に不満があるか?と誰かに聞かれたら、こう答えるのだろうな。 自分はその不満すらも離しがたくて、この身を置いているのだと。これでは志摩に「ヘンタイ」と言われるのも無理はないと悟った。 使い魔と手騎士が仲睦まじく帰って行くのを、籠の中の蝶は優しく見守っている―― * * * 蝶に変えられて一ヶ月。だんだんと勝呂の人間としての意識が薄れてきた頃。 曇りの日の朝だった。 「どうしよう奥村くん!志摩さんがおれへんの!!通帳も無い!!」 目を醒ますと子猫丸が半分泣きながら塾の友人に電話を掛けているのが籠目越しに見えた。理性が殆ど残っていない今の勝呂でも、この人間の傍に行って慰めなければならない気がする声で。 「ひょっとして一人であの女郎蜘蛛んとこ行ったんかもしらん!!」 それは大変だ。と女郎蜘蛛のことも志摩という人間のことも思い出せないのに酷く焦ったような気にされた。 「なんで隣なのに気付かへんかったのやろ」 自責に駆られる丸い頭を撫でて安心しろと言ってやりたい、そしてこんなに心配させる志摩という人間を叱らなければ、自分がしなければ、それが出来るのは自分だけ。 ――アイツが間違った時に叱ってやるのは、俺の役目やろ そう思った瞬間、勝呂の意識は完全に覚醒した。志摩のことも思い出した。あれはなんて無茶をしようとしているのだろう。 ――志摩、お前……死ぬで!! バタバタと急に暴れ出した虫籠の蝶を見て、子猫丸はキリっと顔付きが変わる。そうだ、勝呂がこんな状態で志摩がいないのだから、もっとしっかり気を持たなければ、三輪家の当主なのだから。 「坊、行きましょう!!」 丁度、メフィストから理事長室へ来るよう収集が掛かった。あの人に頼れば、まだ間に合う。 「一緒に!!」 子猫丸は素早く着替えると虫籠を極力揺らさない様に、早足で理事長室へ向かう。 その間に勝呂は思い出していた。昨夜のこと……たしか自分は志摩が出掛ける時に起きていた。 志摩は最後になにか声をかけて出て行ったような……―――― * * * 正十字学園の天候が曇りなら、此方は雨天、静岡県天城山にはしとしとと霧のような雨が降っていた。 「はぁ……ほんま面倒なことになってしもた……」 自分は本当にいったい何をしているんだろう。窓の外を見て溜息を吐く。 勢いで出てきてしまったものの何の手立てもないじゃないか。 付け焼刃にもならないだろうが志摩はバスに揺られながらスマートフォンで女郎蜘蛛について調べた。 女郎蜘蛛の住まう浄蓮の滝には、嘗て“浄蓮寺”という名の寺があったという……今は廃れてなくなったその寺にも栄えていた頃はあったのだろうか? あの悪魔なら、その移ろい全てを見てきたかも知れない……そんな彼女に勝呂の夢を語れば、青臭いと馬鹿にされてしまいそうだ。 出来る事なら是非そうしてもらいたい、そうすれば ――遠慮なく、攻撃できそうやし 志摩は自分の思考が信じられなかった。何故、勝呂の為に危険を冒そうとしている? そんな疑問とは裏腹に指は更に調ようとスマートフォンをタッチし続ける、すると邪魔するように着信音が鳴った。 猫の画像と一緒に“子猫さん”という文字が映し出されて、志摩は電源を切ってしまった。 「ごめんなぁ、みんな」 バスが留まる。目的地はすぐ其処だ。 鍵を差す扉も見当たらないから先回りされていることは無いだろう。 バスが発つ、辺りには不思議と人間がいなかった。 『いらっしゃい……貴方一人できたの?どうして?』 滝の上から一ヶ月前に聞いたものと同じ声が聞こえる。 「さあなぁ……どうしてやろ?」 どうしてこんな行動に出たのか、志摩自身ですら解からなかった。 つづく あの1〜2話で終わる予定です 完結までに志摩くんに恋愛感情が芽生えてくれるんでしょうか?いや恋愛感情芽生えなくても充分坊のこと大好きな気がします |