※中学時代捏造






広い庭を有した旅館の一室、年の初めから終わりまで此処にいれば、春の鳥が夏の虫、夏の虫が秋の獣たちの声に変わっていく過程を感じることが出来る。
冬はそれら生き物たちが密やかに眠り、勝呂の庭は風と水の音に包まれていた。
部屋の中では、少年にしては無骨な指がページをめくる音がパラパラ、細いペン先がノートの上を滑る音がカツカツ、石油ストーブの上に置かれた薬缶が時折沸騰を知らせてくる音がコトコト、そして雪の積もった山肌から吹き下ろされる風がカーテンの向こうの窓をガタガタと鳴らしている。
沸騰する薬缶に水を足した後、既に敷いてある布団を見て恋しくなる、ああこのまま寝てしまえれば良いのに、時刻は深夜零時を回っていた。
机に戻り解きかけの問題をもう一度読み込んでいると急に頭が痛み出す、薬は先程飲んだので今はこめかみを押さえじっと痛みが過ぎるのを待つしかなかった。
空気が澱んでいるせいかもしれないと手を伸ばし数センチだけ窓を開けると冷たい風が入り込んできたが、少し心地よくも感じる、頭痛持ちではなくても何時間も休み無く勉強に勤しんでいたら頭が痛くなってしまうだろう。
それでもまだ止めようとは思わなかった。
知識をひたすら頭に詰め込んでいく勉強法なんて本当は効率が悪いんだと解っていてるが、一番自分にあった方法だとも思っている。
ストイックに一途に、そうしていないと不安や重圧に押し潰されてしまいそうだから、それにまだ正十字学園で奨学生になるには学力が足りないと思っている、学費の馬鹿高い私立校へ志摩や子猫丸も一緒につれて行くのだから、せめて自分の分の学費は自分でどうにかしたいのだ。
「アンタの様にはならん」と大見得をきった手前、親には頼れないし、明陀に負担をかけたくない。
我儘を聞いてくれた皆を安心させたい、自分を信じて付いて来てくれると言った周りの者達にこれ以上迷惑をかけたくない。

勝呂を嘲笑する同級生の言葉、勝呂に失望した信徒の言葉、勝呂に期待する志摩家の言葉、様々な言葉が頭の中でぐるぐると回って、余計頭痛が酷くなってきた。

「坊、入りますよ」

その時、幼馴染の声が聞こえ、頭の中で回っていた言葉が消えた。
入室を許せば礼儀正しく襖が開けられ、声の主である子猫丸がそっと静かに入ってきた。
「まだ起きとったんか」と自分のことは棚に上げて驚きと心配を滲ませた声で言えば猫のように目を細め笑われてしまう。

「これ、どうぞ差し入れです」

子猫丸はそう言いながら片手で持てるほどの大きさの盆の上からマグカップをとって勝呂の机の上に置いた。
ほあほあと湯気が昇るカップの中身はココアだ。
冬場は身体を温めるからと豆茶や紅茶を淹れて飲むことは多いが、甘いココアを飲むことはなかった。

「どうしたんや?これ」
「……女将さんが持っていけって」
「おかんが?」

父親と衝突して以来、勝呂は家族と食事時や挨拶以外で最近ほとんど口をきかなかったが、そんな母親が自分の為に作ってくれたココア……胸がじんわりと熱くなった。
母親も自分に似て(自分が母親に似たのかもしれないが)素直でない部分があるので、作ったはいいが照れくさくなって子猫丸に預けたのだろう、勝呂も素直ではないが身内の好意を踏み躙るようなことはしない為、有り難く受け取る。
慣れない飲み物だけど、きっと明日の朝に顔を合わせたとしても礼を言えないから、その代わりよく味わって全部飲み干そうと決めた。

「わざわざありがとな、子猫丸」


持ってきてくれた礼を言って一口飲めば、ふわりとしたカカオの香りが口の中に広がり、濃厚なミルクが身体を芯から温めるようだった。
勝呂の体調を考え砂糖はあまり入れないでくれたのだろうか、砂糖の甘みはしない代わりに蜂蜜の風味が仄かにする。
ココアは頭痛を誘発する飲み物とされるが、同時に頭痛を和らげる効果もあるという、勝呂にとっては後者だったようで一口飲む毎に少しずつ頭の痛みが弱まっていくのを感じた。

「おいし……」

思わず顔が綻んで、心の其処からホッとしたような声が出を出す勝呂。
作り主の優しさが詰まったような温かい飲み物に癒される、先程まで感じていた焦りや押し潰されるような重圧は消えてしまっていた。

「よかったです」

その表情を見て子猫丸は安心する、もともと何事も一人で背負い込み過ぎてしまうきらいがあった勝呂は最近になって益々その性質を強くしていた。
本人は周りの為に努力しているつもりでも、その所為で周りの人間のことが見えなくなっては意味がないのに、まだ若い勝呂はそれに気付かない。
明陀の大人達が勝呂へ抱く想いは、可愛らしい、誇らしい、頼りになる……等々、結局勝呂が良い子だからそうなるのだろうなというものばかりだが、同世代の子供達から見れば、ハラハラする、歯痒い、もどかしい、腹立たしいといった彼の欠点を責めるような想いが出てくる。
それでも前を向いて歩く背中について行きたい、支えたい、力になりたいと想わせる所が彼の魅力なのだろうけど……

「有難う」

子猫丸がぼんやりとそんなことを考えている内に勝呂はココア飲み終えていたようだ。
ハッと我に返り、微笑み返しながら「いえ……僕はなにも」と心から想ったことを口に出した。
自分は頼まれて運んだだけ、それにちゃんと見返りがあったのだから(見返りなんてなくても快く受け入れたが)そう何度も感謝されては困るのだ――ココアと共に受け取った沢山の猫画像は彼の携帯に大事に保存されている。
外では冷たい風が吹き荒んでいる、なのに自分は暖かい部屋の中で幼馴染と微笑みあっている、子猫丸はガタガタ揺れる窓を横目に見ながら呆れたように溜息を吐いた。

(しゃあないなぁ……)

勝呂へのココアの差し入れは冬の間、毎日続いた。
寒い日も雪の日も零時を過ぎる頃にそっと差し出される温かいマグカップは勉強に疲れた勝呂を癒し続けた。
そして春になり勝呂は見事正十字学園に特待生として合格を果たし、明陀中から、勿論両親からも祝福を受けることが出来た。


――それから二度目の冬を向かえる、勝呂は二年前と同じように机にしがみ付いて勉強をしていた――
志摩は勝呂のベッドに寝そべりながら、つまらなそうに彼の背中を見詰めている。
奨学生であり続ける為に成績上位者にならなければならないのは承知しているが、別に一日くらいサボったからといって落ちるような成績ではないじゃないか、今夜はこの冬一番の冷え込みだというのだから早くベッドに入ってきて欲しい。
こんな夜でも二人くっついていれば朝までぐっすり眠れるのに、そう思っても強請れない志摩だった。

「志摩、まだ寝えへんのか?」
「え?ああ……そうですね」

拗ねたような声を出してしまったが、眠くてぐずっているように聞こえたかもしれない。

「机のライトしかつけてへんから明るくて眠れんってことはないやろ?」
「別に、電気ついてて眠れへんいうデリケートな人間ちゃうんで、部屋の電気もつけてええですよ?勉強すんなら明るい方がええでしょ」

早く一緒に寝てもらいたいのに逆のことを薦めてしまい志摩は頭の中で舌打ちをする、もう勝呂なんて待っていないで先に眠ってしまおうかとも思うが、この寒さじゃ上手く寝付けないに違いない。

「ああ……いつからか癖になったんよな、ライトだけで勉強すんの」
「目悪くなりますえ?」
「でも部屋の電気つけてたら窓の外に明かりが漏れるやろ、そしたら近所にバレるやん夜更かししとるって」
「……別に坊なら夜更かししとっても、ああこんな遅くまで勉強しとるんやな〜って思われるだけでしょ」

志摩は笑いながら「俺やったら何やいかがわしい事しとるように思われるかもしれんけど」と冗談を言った。

「やからや」
「へ?」
「俺の部屋に遅くまで電気ついてると心配してくる奴が近所におったからな」
「……」

志摩が黙ると部屋には勝呂の立てるシャーペンの音だけが響くようになった。
此処には故郷のように底冷えする寒さも、山から下りてくる風もない、でも二人で眠る暖かさを知ってしまったから、一人のベットの寒さは比べようにならないのだ。

「流石に眠くなってきたな」
「ほなら、さっさと眠ってしまいましょうや」
「……寝る前に、あれが飲みたい」
「ん?」

勝呂がぽつりと呟いた言葉にきょとんと首をひねらせる、長い付き合い故に主語のない会話は慣れてしまっているが、今回勝呂の言う「あれ」が何かわからなかった。

「ココア、また作ってくれへんか?」

見詰めていた背中が振り返り、どこか照れくさそうに頼まれた事に志摩の心臓は飛び跳ねた。
志摩の頭の中で「え?なんで?」と疑問符が浮かんで大きくなっていく。

「まさか子猫さんが……?」

バラしてしまったんだろうか、猫の画像をあげて口止めしていたのに、まさか自分が騙してしまったから約束を破られたんだろうか、志摩の顔がだんだん青ざめていくのに気付いた勝呂は椅子から立ち上がって志摩の隣に腰掛ける。

「ちゃうわ、小さい頃オカンが作っとったココアと味が違うたからな、誰か他の人が作ったもんやって気付いたんや、でも子猫が作ったんやったらそう言うやろうし……」

志摩の頭を撫でながら思い出し笑いをかみ殺す。

「可笑しいと思って柔造を問い詰めたんや」

そうかバラしたのは勝呂に甘い二番目の兄だったのか、ピンク色の頭を布団の中に隠そうとして勝呂に邪魔をされた。
きっと自分の顔は羞恥に染まっているに違いないから見せたくないのに、意地悪な恋人はそれを許してくれない。

「そしたら毎晩夜遅くに俺ん家に行っとる言うやん」
「気付かれんようにそっと抜け出してたんに……」
「京都支部の次期所長をなめたらアカンで」

顔の半分を枕に埋め、横目で睨みつけるが効果はない、勝呂の笑みが益々深まるだけだった。
ああもう恥ずかしくて堪らない、あの頃の自分はどうかしていたんだ。
あの冬は、明陀の事や勝呂との関係を今よりずっと重苦しく感じていた次期なのに――勝呂の家まで毎日ココアを作りに行っていたなんて――

「なぁ志摩、お前が俺に対して複雑な気持ち抱えとるんはわかっとるんやけどな……」

勝呂は緩んでいた眉間を少しだけ顰めて志摩の額の傷に触れた。

生まれてきた時からの絆があり確執もある、勝呂だって志摩に対し赦せること赦せないこと好きと嫌いとがせめぎ合って苦しい思いをすることもある。

「それを少しでもええから俺にぶつけてきて欲しいて思うんや、お前は嘘うまいし俺は鈍感やから気付いてやりたくても気付けへんことが多い」

主である勝呂にこんな風に恭しい態度でお願いされては志摩の方が参ってしまう「やめてくださいよ……」と手を伸ばし自分へ触れる腕を労わるように撫でた。

幼いことに触れていた腕、思春期になって遠のいた腕、今はこんな近くに感じられる、まだ二年しか経っていないのに随分強くて逞しい男の手になったことだ。

「ココアのこと隠してたんは、別に坊に知られたくなかったわけやなくて……いや、知られたら恥ずかしいくらいは思ってたけど」

ずっと勝呂のしたい事にいやいや付き合うのが常だった自分が、勝呂の為に自発的になにかするなんて本当にらしくないと感じた。

でも、子猫丸から「坊、よろこんでくれましたよ」と言われて嬉しかった気持ちは確かに真実で……自分は本心から勝呂を心配して力になりたいんだと思った。

「好きやったんやろなぁ……坊のこと、だからなにかしたいと思ったんやろなぁ」

夜遅くまで皆のために頑張っている勝呂、こんな寒い夜ではきっと頭痛も酷くなっているだろう、そう思うといても立ってもいられなくなった。

ココアパウダーと蜂蜜とミルクを抱えて家をこっそり抜け出して、子猫丸に電話してこっそり勝呂の家に入れてもらった。

好い加減な自分にしては驚くくらい丁寧に分量を量って、ミルクパンなんてないから雪平鍋でミルクと混ぜて、最後に蜂蜜を少しだけ加える。

膜が出来ない様に慎重に掻き混ぜながら、ああこれは自己満足なんだろうなと切なくなった。

「やから、秘密にしたかったんやろうな……」

あの時の気持ちを思い出したのか蜂蜜のようなとろける瞳で勝呂を見上げる、すると彼の頬が赤くなっていることが薄暗い中でもよく解かった。

お互いに愛されてるなぁと幸せを感じながら、今夜はもう勉強をする雰囲気にはなれないことを察した。


「で?作ってくれるん?お前のココア」

「仕方あらへんなぁ」

怠慢に起き上がると近くに椅子にかけてあった勝呂のカーディガンを羽織った。

「作ってきてあげますから、ちょっと待っててくださいね」
「ああ、ありがとな」

少し大きいカーディガンの襟を寄せて首元を隠してる志摩を見ながら、寒いなら首の詰まった服を着ればいいのにと思ったが自分のカーディガンの袖がその手の甲まで覆ってしまっているのを見て少しときめいた。

「あ、そうだ坊……俺があったかいココア淹れてあげるんですから」
「ん?」

勝呂の部屋の扉から顔を覗かせて、白い頬を赤くさせながら志摩がはにかむ。

「その代わり、俺のことはアンタが朝まであっためててくださいね」

そう言って逃げるように去って行った後、勝呂は暫く呆然とし、そしてベッドに突っ伏して悶えた。
二年前の冬も自分は彼のココアを楽しみにしていたが、こんな待ち遠しいと感じたのは初めてだ。

思い出は上書きされていくけど、きっと次の冬には祓魔師になっていて、こんな風に落ち着いて過ごせないだろうけど、それでも毎年思い出すのは……ふたりで飲むココアの味だろう――




(よかったですねぇ坊、志摩さん)

夜中だというのに普通の音量で話していた二人は、本棚を挟んだ反対側の部屋で寝たふりをしてくれている子猫丸の存在に最後まで気付いていなかった。







おしまい