[暗渠の蝶]の続きです



夏は嫌いじゃなかった。

暑いし、虫は出るし、早起きをして畑や家の手伝いをしなくてはいけない。

それでも夏は嫌いじゃなかった。



これは高校三年生の夏休みの話−−


「おはよぉ」


志摩が顔を洗って台所へ行けば母から数人分の朝食の乗った盆を渡された。

台の上にそういった盆があと四つ程あるのを見て、今日は自分が二番乗りなのだなと思う。

茶の間に入ると父がひとりいて、読んでいた新聞から顔を上げ「おはよう」と志摩に声を掛けた。

それに答えて、食卓へ皿を並べ自分の席へ座る、父との間にある沈黙は苦ではなく、そろぞろと集まってくる家族と挨拶を交わし、その度に増えていくおかずを見詰めながら次第に目醒める空腹感に耐えていた。

最後に炊飯器を持った母が席について漸く朝食が始まる。

泊まりの仕事がない場合、朝食は家族全員一緒に摂る、それが志摩家の習慣だったが、今の世の中これは珍しいことかもしれないと思った。


「なあ?蝮姉が来たらこのテーブルやと狭ない?」


ふと疑問に思ったことが志摩の口から出ていた。

今はぽっこり空いている矛造の席をつめれば蝮の座るスペースも出来るが、両親や兄姉達はソレをしないだろう。


「そりゃ……小さいテーブル足すしかないんちゃう?」

「こんくらいの幅と高さのテーブルうちにあったやろか?」


等と話し合う家族に志摩は少し面食らってしまう。

幼馴染みの間では自分が話の中心になることもあるが家族の間では騒がしい四男か末の妹がそうなることが多い。

だから自分が何気なく訊ねた言葉で話題が広がってゆくのは新鮮だった。

蝮の名前が出たからか柔造はなんだか嬉しそうにしているし、金造はひとり拗ねたようにそっぽを向いていて可笑しい。


「今度蔵の中を探してみるわ」

「そやな、でもまぁ……盆が過ぎたらやけど」

「坊の誕生日もあるで!」


今の今まで拗ねていた金造が弾かれたように言った。

盆の慰労会も兼ねて勝呂の誕生日には宴会が開かれる、それが楽しみなのだ。


「それもあるけど、まずは盆や、盆になると寺の方に客が増えるからな」


八百造が金造に向かい厳しい声を出した。

そうは言っても祟り寺と呼ばれる寺なので大きさに反して客も檀家も少なく盆は暇な方だが……


「噂に惑わされずウチにおってくれはっとる大事な檀家さんや、粗相のないようにな」

「え?なんで俺の方見て言うん?」

「金兄が一番心配やからやろ」

「なんやとぉ」

「きゃー」

「こら食事中に暴れへんの!」


兄妹達が賑やかす食卓に志摩は、ああ帰ってきたなぁ、と実感する。


朝食を終え、皆で片付けた後、そそくさと自室へ戻る、家にいれば手伝いをさせられたり父や兄に扱かれるので用は無いが何処かへ出掛ける準備をした。

しかし一人でぶらぶらと歩いている所を勝呂に見つかっては面倒だ。

中学の同級生から因縁をつけられるかもしれないし、またどこぞの秘密結社から勧誘されるかもしれない。

そんな事を言って志摩と行動を共にしようとする幼馴染を思い出しうんざりした。

他人の心配するくらいなら自分の心配をしてほしい、特に勝呂は不器用なのだから本当に大切なことだけを考えていればいいのだと志摩は思う。


(俺そんな信用ないんかなぁ)


そう思った後で当たり前かと苦笑した。

口に出すのは建前ばかり得意な顔は作り笑顔、全身を嘘でコーティングして生きてきたのだから信用されなくて当然。


「廉造」


玄関でサンダルを履いている志摩を背後から柔造が呼んだ。


「ん?なんやの?俺これから図書館で宿題するんやけど」


なんてスルリと嘘が出て来る自分に呆れた。

勝呂に会った時の言い訳用に宿題を持ち歩いてるのは本当だけれど、する気など一切なかったからだ。


「いや、礼を言いたいだけやから」

「へ?」

「さっき蝮のこと話してくれたやろ?嬉しかったわ、ありがとう」

「……ああ、そんなこと」


照れたように笑う次兄にそう返せば「婚約者の話が家で出んのは不安やろ?」と溜息を吐かれた。

主に金造の所為で話題に出しにくいのだろう「これは蝮姉苦労するわぁ」と内心で呆れていたら柔造はまた笑みを浮かべ志摩の頭に手を置いた。


「それに……お前ここに帰ってくる気があるんやなって思って」


だから蝮の席が足りない等と言ったのだろう、自分が出て行けば彼女はそこに座れば良いだけの話なのだから。


「お前は高校卒業したらウチ出て行くもんやと思っとったから、嬉しい」

「……」


確かに以前はそう思っていた。

だが高校一年の頃に経験した様々な事件によりせめて勝呂が座主に就くまでは傍にいようと気持ちを切り替えたのだ。

高校三年の夏にして漸く迷いがなくなったというのに兄の言葉に素直に頷けない自分がいる。


「……でも、鍛えるんやったら子猫さんと錦姉にしといたって」

「ん?」

「俺は……五男やし」


宝生は長子である蝮が嫁ぐから錦が継ぐだろう、志摩の次期家長はこの柔造で三輪には子猫丸しか残っていない。

だから将来勝呂の脇を固めるのはこの三人と決まってる、幼馴染みで夜魔徳を遣えるからといって何代も続いてきた伝統を覆すなんて自分には出来ない、面倒くさい。


「廉ぞ……」

「お邪魔します」


柔造が何か言おうと口を開いたのと、玄関の扉が開いたのは同時だった。


「……と、言うのだったな?人間は」

「おまっ」


志摩と柔造が顔を上げると、白いワンピースに鍔の広い帽子を被った美女が玄関の前に立っていた。

忘れもしない、この女は−−


「知り合いか?廉造……」


柔造がそう聞く前に志摩はキリクを組み立て美女に向かって飛び出していた。

キィンと甲高い音が鳴った。

志摩のキリクと女の腕がぶつかった音だ。


「邪魔すんやったら帰りや」

「おお怖い」


女の腕は白い何かでコーティングされているようだった。

人間の芸当ではないし、人間の女性を志摩がこうも躊躇なく攻撃する筈がない。


「悪魔か?」

「女郎蜘蛛……二年前、坊を蝶にしおった奴や」

「こいつが?」


柔造が眉を顰める。


「随分ご挨拶だな?人の子よ」

「五月蝿い何しに来たんや?また坊になんかする気やないやろな?」

「そうだと言ったら?」

「……」


志摩の背後に黒色の焔が上がり、女郎蜘蛛は「ほぉ」と物珍しげにそれを見た。


「待て!廉造!!」


女郎蜘蛛は悪魔ではあるが天城山の神だ。

殺す訳にはいかない、と、柔造が志摩の肩に手をかける。


「放して柔兄!コイツは坊を……」

「ククク……相も変わらずあの坊の事となると恋狂いの女の様だな」

「なっ!?」

「え?」


酷く動揺した弟に驚き柔造が目線を向けると志摩が顔を真っ赤にさせ射殺さんばかりに女郎蜘蛛を睨んでいた。


「お前……」

「柔兄!悪魔の言葉に惑わされんで!」

「おぉ、そうやな、すまん……」


と、謝りつつ常とは違い過ぎる弟の様子を見て確信した。


(本気か……)


自他共に女の子大好き人間である弟が、まさか厳つい男に恋愛感情を向けているとは、しかもかなり難儀な相手である。

幼い頃から「坊をお守りするんやで」と言い聞かせていたからか?と一瞬思ったがそんなのは明陀に生まれた子ども皆に当てはまることなのだ。


「別に取って食おうとは思っておらん、今日は奴に頼みがあって来ただけだ」

「そんなん信用できるか!お前が坊になにしたか忘れてへんからな!!」

「お前に信用云々いわれるとは心外だな」

「……ッ!?」

「勝呂竜士を想う心は本物だろうが奴を騙していたのだろう?ああそれは今もか」


恋愛感情を隠し、勝呂の為にする全てを幼馴染としての情だと嘯いているのだから――


そう言われた志摩は激昂し、キリクで女郎蜘蛛を突き飛ばす。

だが力を入れ過ぎて腕を痛めてしまったのか小さな呻きを上げ、顔が歪んだ。


「廉造!!」

「どないしたんや、大声出して」


するとそこに父である八百造が駆け寄って来た。

その斜め後ろに金造も引き連れている。


「あいつは」

「廉造!」


金造は靴も履かずに女郎蜘蛛と対峙する志摩の元へ走った。

柔造は慌てて其れを追い、父へと叫ぶ。


「アイツは女郎蜘蛛!二年前に坊を蝶に変えた悪魔や!!」

「なんやとぉ!!」


その瞬間、柔造は「あ、まずい」と呟いた、自分がキレやすいということは常に心の隅に置いていたが、父も明陀や家族が絡むとキレやすいのだ。

鬼のような形相で女郎蜘蛛へ迫る父を止められる者はいない、今の言葉を聞いて金造も一気に戦闘態勢に入り、志摩に至っては夜魔徳を完全に物質化している。

二年前にも同じようなことがあったのを思い出す、勝呂が蝶に変えられたと聞いてすぐにでも女郎蜘蛛を成敗しに行こうとした自分達を達磨が止めたのだ。

女郎蜘蛛は山の神だから――と。


(和尚!)


柔造が思わず達磨に助けを求めた瞬間、空間を揺らすような怒号が響いた。


「なにやってるんや!!」

「ッ!?」


声の方へ視線を向けると庭先には勝呂と、何故かメフィストが立っていた。

八百造と金造は戸惑ったような目線をメフィストへ向ける。


「坊……」


あっけにとられたような声を上げた志摩の目にはメフィストは映っていなさそうだ。


「坊!逃げて!」


そしてハッとしたように叫ぶと勝呂と女郎蜘蛛の間に勝呂を庇うように立ち塞がった。

それを彼女は面白そうに見る。


「くく……二年前と同じ瞳をしているなあ、いや、それよりも強いか」

「アンタ、なに言うてんの?」

「それほど守りたいと想っても、その対象から信用されていないとはツラいなあ?」


女郎蜘蛛が口元を覆っていた手をおろし、にたりと三日月のような口を見せて来る、志摩は本能的に震えた。


「傷付いたお前の心……本当においしそうよ」


自分に向けられた目がいやらしく細められるのを見て志摩は体の芯からゾクゾクと怖気を走らせる。


「おい……」


今度は地を這うような冷たい声が勝呂から掛けられ女郎蜘蛛はそちらへ笑みを向ける。

彼の声は本当に良い、悪魔を甘き死に突き落とすような高揚感を与える、外海の言葉ではアリアと言ったろうか、そんな歌のようだ。

女郎蜘蛛はくすくすと笑いながら、メフィストの背後へ回る。


「まったく、勝手な真似をしてくれますね」


呆れた様にメフィストが言えば彼女は肩を竦めて眉を下げた。


「申し訳ございません、我が君」


メフィストを“我が君”と彼女はそう呼ぶ“若君”とは違う、己の主人への呼び名だ。

あれから女郎蜘蛛はメフィストの配下に下ったということか、山の摂理を維持する為に契約を交わしたのかもしれない。

明陀が聖十字騎士団へと下ったように、彼女も山を守る為に彼を頼ったのかもしれない、そう思うと八百造の心は落ち着きを取り戻した。

女郎蜘蛛への怒りも少しだけ和らぎ、代わりにメフィストへの不信感が湧いた。


「何しに来たんですか?アンタが来たら碌でもないことしか起こらないんですが」

「随分な言われようですね」

「アンタのせいで廉造が随分と危険な目に遭わされましたからなぁ」

「おとん、それは俺が……」

「あれは志摩が自分で決めたことやろ」


自分が言いたかった事を勝呂に言われ、志摩は口を噤む。

あれから勝呂が志摩の意志を尊重するようになったのは嬉しいが、今の自分には辛くもあった。

この人は“明陀から離れたい理由”をことごとく奪い去ってしまう。

自由を求めて、柵に嫌気がさして、必要としてくれる場所に行きたくて、そんな理由で勝呂から離れていきたかったのに……どんどん居心地が良くなって勝呂を好きになっていく。

志摩は“坊のことが好きだから”なんて理由で離れたくないのに、ずっとずっと大嫌いだったのに……



「志摩も、八百造達も落ち着け、今回こいつは聖十字騎士団を通して依頼してきたそうや」

「騎士団を?悪魔が……?」

「というよりも私を頼ってきたと言った方が良いですね」


メフィストがニヤニヤと笑みを浮かべて勝呂を見る、漸く落ち着いた志摩が彼へ問いかけた。


「どういうことやの?」

「説明するから、はよソイツしまえ」


と、夜魔徳を指され言われたので志摩はムッと勝呂を睨む。


「……」

「めっちゃ疲れるんやろ?」


言い聞かすような声色に志摩の苛々も募るが、確かに夜魔徳を出したままでは体力の消耗が激しく、いざという時に動けなくなるかもしれない。


「わかりました」


不機嫌な勝呂を自分が諌めるという普段の立場が逆になったようで、志摩は面白くなかった。

しゅるしゅると小さくなっていく黒い焔に安堵の表情を浮かべた勝呂は次いでこう言った。


「落ち着いて話したい、八百造、部屋を借りてええか?」

「ええ、坊がそういうなら」


本当は使い魔以外の悪魔を家に入れたくなかったが勝呂の頼みでは仕方ない。

柔造へ客間の準備をさせるように、金造へ妻と末娘を旅館の方へ避難させておくように申し付けた後、八百造は勝呂の隣へ付いた。

志摩はその逆隣に付くかと思ったら、じっと見張るように女郎蜘蛛の斜め後ろで足を止めた。


「そんなに警戒せずともよいのに」

「……」


志摩は動かない、皆に危害を加える可能性もあるが、これ以上余計なこと……勝呂に己の情の正体を知られるようなことを言わせない為にも自分がじっと見張っている必要があった。

彼女はくすくすと幼子のような笑みを浮かべながらメフィストの腕へ手を回すと「コレで安心であろう?」と振り返る……どこが安心だ。


「そろそろお邪魔してよろしいですか?」

「ええ……付いてきてください」


そう言って八百造が先頭を歩き、その横を勝呂が歩幅を合わせて進む。

玄関を上がり廊下へ出ると障子の奥から隠せない気配を感じる、知らせを聞いた明陀一族の者達だ。

下手な真似をしたら白蛇がすぐに襲い掛かってくるぞと脅すような気配にメフィストも女郎蜘蛛も肩を竦める。

客間へ付くとまず勝呂が座りその横へメフィストと女郎蜘蛛、その後ろに志摩が座る、一番最後に座ったのは家主である八百造だった。


「で?どないしはったんですか?坊」

「俺から話すより理事長からの方が早いやろ……」


そう言ってチラリと横を見る勝呂にメフィストが頷く。


「ええ、早速ですが本題に入らせていただいても?」

「ああ、手短に願いたい」


八百造は緊張していた。

メフィストや女郎蜘蛛に対してもだが、先程から苛々を隠せない志摩に対しても怪訝に思っていた。

いつもへらへらと笑顔を浮かべている息子が、こんなにも感情を露わにするなんて珍しいからだ。

だがそれに関しては恐らく二年前に勝呂を大嫌いな虫へ変えられたことがトラウマとなっているのだろうと結論付け、真っ直ぐにメフィストへ向き直る。


「なに、そんな難しいことじゃないですよ」


するとクマの消えない不健康な色の顔を笑みに歪ませて、己らの上司はこう言ったのである。

有無を言わせぬ眼力を持ちながら……



「彼女の棲む滝へ行って」



忌々しい思い出の残る、あの場所へ再び参れと――



「経をあげて欲しいんです……勝呂くんに」



そう“命令”した。







続く