勝呂の傷も癒え、熱も下がり、さあまた旅に出ようと話していた時だった。

「旅に出る前に銀造のとこ行っていいですか?」

志摩が知り合いに預けている己の養子に会いに言い出したのだ。

「ん?そりゃええけど珍しいなお前が自分から言うなんて」
「いつもは俺が言う前に坊やねえちゃんが言うてくれてましたから、最近は坊の熱とかあって忙しくて行けんかったんで、そろそろ顔見せとかへんと拗ねてまうかなぁと」

苦笑いして頭を掻く志摩を勝呂は微笑ましく見詰めた。銀造を引き取った当初は親をしている志摩を見ると複雑な気持ちになったものだが、今は二人とも可愛い。だから二つ返事で許可をだしたのだが。


「ほなら途中で寄って行こうか?」
「いや!今回は俺一人で結構です!」

わざとらしい笑顔で首を振った志摩に驚く。

「すみません坊、でもたまには家族水入らずっていうのを味あわせてやりたくて」

どうも嘘臭いが、そう言われては仕方ない。当の銀造にしてみれば志摩の好きな相手の勝呂や、会う度に構い倒してくれる宝生のことも家族のようなものだが、三人にその自覚はなかった。勝呂が納得すると志摩は出掛ける支度をしてくると言って退室していった。

「坊はもう少し休んどけってことやないですか?」
「……」

宝生が「私もまだ坊は動かへんほうがええ思いますよ」と難しい顔で言った。確かにそれも志摩らしい思考であるが違和感を感じる。昔から志摩が勝呂の傍を離れることなんて滅多になく、あったとすれば勝呂が驚くべき行動に出ていることが多い。銀造を養子にした時もそうだった。少し目を離した隙をついて何時の間にか引き取っていたのだ。別に怒るようなことでもないが何も相談されていなかったのが少し寂しく感じる。

(また妙なこと考えてへんとええけど……)

そんな勝呂の心配を余所に、志摩は荷物を纏めながら先日の伽樓羅を連れた男の事を思い出していた。あのことは誰にも言っていない、勝呂になんて絶対に言えないのだ。自分の命が他人に握られ脅しの材料にされていると知れた時あの人が何をするか志摩には想像がつかない。ただ自分を責めるだろうことは確かなので最後まで絶対秘密にしておかなければならないと思う。ただ、志摩一人ではどうしていいか解からない問題だった。

(ヨハンさんは……無理やな)

ヨハンの事は子どもを預けるくらい信用しているがヨハンが所属しているという外国の組織の事は良く知らない。もし先日の男が仕えているという人物がヨハンの組織と敵対していたらどうする。勝呂の命が人質に取られていることが知れれば“勝呂を処分してしまえばいい”という指向にいってしまうかもしれないだろう。

(結局俺は誰も信用できへんのやな)

志摩は大きな溜息を吐いた。折角あの“家”の外に出たというのに味方は少ない。勝呂はあの性格なので上流階級には彼を良く思わない者が多い。いつも弱い立場の者達を優先して助ける彼をとても愛おしく思うのだけど、少しくらい権力者に媚びてもいいのにと思う。勝呂は基本的に祓魔の報酬を受け取らないから三人が旅を続ける為には金銭面で援助してくれる人が必要なのに、今のところ旅館の主人や、三輪家の奥方くらいしかいない。

だから、こんな時に頼りにできる人物もいないのだ。志摩は少しでも勝呂を護れる者を増やそうと今まで努力をしてきた。銀造を養子にとったのだって自分が先立った後に勝呂を護らせる為だ。だから海外の祓魔師であるヨハンに預け、幼いうちから修行をつけてもらっている。そんな自分を「父」と慕ってくれている銀造のことは本当に可愛いのだけど、それでもやはり一番大切なのは勝呂だから――……

「……まだまだやな」

「くっ……」

歯を食いしばり自分を見上げる愛息に厳しい視線を落としながら、竹刀を持った手を下ろした。勝呂と宝生を置いて一人ヨハン・ファウスト宅に訪れた志摩は、来て早々に銀造から強請られ稽古をつけている最中だった。錫杖を使った棒術を得意とする志摩が竹刀を振るうのは自分に怪我をさせない為だろう、銀造はそれが悔しかった。

「でもまぁ、だいぶマシになってきたやん?」

厳しい顔が一変し、今度は子供の成長を喜ぶ父親の顔になった志摩。銀造は尚も悔しそうにキリクを握り絞めた。このキリクはヨハンに預けられる時に志摩から受け継いだ物、何も言われていないが志摩家の子として勝呂を護れる男になるようにとの想いが籠められている。あの日の銀造はその重みが嬉しかった。実の親に“力”があるからと疎まれていた自分が、その“力”を必要としてくれる人に出逢い、家族として迎え入れられたのだ。早く彼に認められる男になって共に勝呂の役に立ちたい。

「銀造は筋がええから今にきっと俺よりつよくなるよ」

「ほんまか?俺、志摩家の男として恥ずかしくない人間になれるやろか」

「ああ……本家の奴らよりよっぽどな」

愛しげに自分を見詰めていた志摩の瞳に昏い影が出来る。勝呂と共に旅に出る時、本家の人間とは絶縁状態になった。銀造は殆ど親交がなかったから(というか親からさせてもらえなかった)ので事情はわからないが、己の養父は自分の生まれ育った家に失望していたらしい、そしてそれは宝生も同じ。二人が今も家族と想い大切にしているのは兄と姉でくらいだ。

「おとん汗かいとるな!一緒に風呂入ろうや!この家の風呂めっちゃ広いんやで!」

「……せやな」

重くなってしまった空気を変える為にした提案に志摩は笑った。子供に気を遣わせてどうするんだ。

「おとんも坊のとこに帰るんやったら綺麗にせんとあかんでー」

銀造がなにげなく言った言葉にドキリとする。自分の気持ちはこの子にも筒抜けなんだろうか、幸い本人にはまだバレていないが周りの人間には何故か知れ渡ってしまっている。男同士の関係が不自然ではない世界で育ったとはいえ、彼に暖かい家庭を作って欲しいと望む志摩にとって自分の気持ちは障害でしかなかった。

「せやなぁ綺麗やないと……」

「ん?なんか言ったか?おとん」

「……なんでもないよ」

行こう、と銀造の手をとって歩き出す。でも子供すぐに手を放して先に走り出してしまう。早く早くと振り返る表情が可愛らしい。

(坊も子が出来たらこんな気持ちになるんやろうか……)

心の美しい勝呂に似合うのは綺麗な女性で、こんな血に濡れた自分は彼に触れるべきではない。たとえその血が勝呂を護る為に浴びたものだったとしても、自分が彼の傍にいられるのは、いつかこの業を背負いきれなくなるまで……そうしたら今度は、この銀造が自分の跡を継ぎ、その身を修羅と化すのだろう。出来るなら自分が生きているうちに安全な場所を築いて欲しい、闘うことも傷付くことも危険に晒されることもない、彼が愛される“家”を、彼自身の手でだ。

「今日はヨハンさん留守なんよね?」

「うん!ちょっと江戸の方で会議がある言うて出掛けとる……でもお手伝いさんおるから飯の心配はええで」

「そういうことやなくて……まぁそれもちょっと気がかりやったけど」

忙しい人だから留守も多いだろうが、その間の銀造の世話はお手伝いがしているのかと思うと少し安心した。

「そっか……なら」

「おとん?」

急に立ち止まった志摩は、心配げに自分に寄ってきた銀造の髪を正面からクシャリと撫ぜた。

「ヨハンさん帰って来るまで何日か泊まろうか?」

「え?おとんがそんなこと言うなんて珍しい!なんなん?坊の具合そんな悪いん!?」

「ちゃうちゃう、まだ体力が完全に回復してないから旅の出発を遅らせた方がええのは確かやけど怪我は完全に治ってるし元気や」

「ならなんで……」

「ただ此処に来るのも久しぶりやから、たまにはお前とゆっくり過ごしたいなて」

ずっとほったらかしにしている立場で「お前が寂しいだろうから」とは言えない。だから言葉を選び、共に過ごしたいのだと言うと銀造の顔はみるみる明るくなった。嬉しそうな我が子の様子を見て志摩の胸は痛む。共に過ごしたいと言う言葉はけして嘘ではないけど、いつもだったら確実に勝呂を優先する。だけど今日の志摩はこう思ってしまったのだ。

――ヨハン・ファウストがいないのなら、盗み見る事は可能だろうか……彼の持つ、膨大な“悪魔の資料”を――と

先日会ったあの男は“不浄王”を召還しろと言った。不浄王がこの地に降りれば都に多大な被害を及ぼすだろう。勿論男の言うこと素直に従うつもりはないが、それでも……

『我々が彼の体内に組み込んだ伽樓羅の焔によって勝呂くんの五臓六腑は灼け爛れるでしょう』

あの男の声と表情を思い出し全身の鳥肌が立った。落ち着け、あんな男の言葉に耳を貸してはいけないのだと言い聞かせる。

不浄王が召喚されたら何の咎のない人が大勢死ぬことになるのだぞ。と志摩の冷静な部分が必死に訴える。

(別に、アイツの言うことに従うつもりはない……)

ただ、敵の目的を知ることは重要だとも思った。これからどのような要求をされても自分が“不浄王”そして“伽樓羅”の情報を得ていれば打つ手があるのではないかと、なにも知らないよりはずっと良い。

その夜、志摩はある扉の前に立っていた。

これから彼はヨハン・ファウストの領域に足を踏み入れることになる。

ノブを引くとキィと開き戸独特の音が鳴った。

それは志摩が外道に落ちる最初の音だった。