貴方だけは変わってほしくなかった
時代の流れなんかで穢れてほしくなかった
ずっと、その笑顔を忘れないでほしかった
貴方の幸せを守りたいと思った
この世の哀しみから守りたいと思った


それがどんなに難しいことでも
必ず為し遂げると
私はあの月に誓った





貴方は私の宝だった
貴方のその輝きを守る為なら私はどんなに穢れても平気だった
大きな背中を眺めるのが好きだった
ずっとその大きな夢を追いかけていてほしかった


これから貴方が手に入れる全ての宝を
いつまでも見守っていようと
私はあの太陽に誓った











...。o○魚の綴じれぬ瞼 .。o○...






東西を分けた戦いは西軍の卑劣な策が露見した事により東軍の不戦勝に終わった。

その策を企てた軍師である毛利と大谷そして実行犯である黒田の三名は征夷大将軍となった徳川家康によって処刑された――……とされている。

されている、ということは実際のところそうではない、実際その三名は今も徳川家康によって生かされ、家康所有の屋敷内で匿われていた。

しかし大谷は今も病床に就いているし、黒田は人目に付かぬ処で働かされている、毛利に至っては長曾我部によって倒された後ただの一度も目を醒ましていない。

このままでは毛利は自分より早く衰弱死してしまう……日の当たらない奥の間でぼんやりと外を眺めながら大谷は思った。


――まぁよい……われも毛利も最低限の望みは叶えられたのだから


そう溜息をついて大谷は徳川が自ずの手から作った薬湯を胃に流し込む、酷く苦々しい味だ。
暫くするとトントントンと小気味よい足音がこちらに近づいてくるのを感じた。
その音が止んだかと思うと障子の向こうから遠慮がちな声を掛けられる。

「刑部、少し話しがしたい……入っても良いか?」
「徳川か……」

予想通りの人物の来訪にそう驚くこともなく、すんなりと名前を呼ぶことができた。
苦い薬だというのに、それを飲んだ後の喉はいつもよりも抵抗なく声を出すのだから不思議だ。
仇敵から施されたものを素直に口にする己というのはもっと不思議に思うけれど、ただ死を待つ身となった今この男を拒む程の意地も消え失せてしまったのかもしれない。


「ぬしも物好きよの、このような病人の部屋に足を向けるとは」
「……入っても良いんだよな?」
「ああ」

戸惑いがちな言葉に大谷は穏やかさを心掛けながら答える。
公の場や戦場では堂々としている徳川が、時折こうして弱々しい姿を見せることを大谷は思うよりずっと好ましく感じていた。
それは昔の彼を好む想いが少なからず己の中にも存在しているからだろうか……そう思えばその頃の彼がどれほど苦悩し焦燥していたか気付きもしなかった癖にと自己嫌悪が始まる。

「どうした?刑部、具合が悪いのか?」
「いや、平気よ平気……」
「そうか、隣いいか?」
「ああ」

窓の縁へ腰かける大谷の横に一人分の間を空け徳川は腰かけた。
もう夏が終わるが、この部屋に通る微風はまだ大谷にとって心地よい熱を含んでいる。

「実はお前に訊きたいことがあって参ったのだ」
「然様か……」

大谷は俯く徳川から顔を逸らしながら、遂にか……と覚悟を決める。
何も答えないという手もあるが石田や島の命は今この男が握っている、徳川が彼らを人質にする筈はないと解っているが、自らの立場を考えれば従う他ないのだ。

「ぬしが他言しないと約束するのなら、われはわれの知る真をすべて話そう」
「そうか……ありがとう」
「しかし、われにはそう刻は残されておらぬからの……手短に済ませてもらうがよいか?」
「刑部」

その眉が顰められるのが見らずとも解った。
己と友を卑怯な手により陥れようとした相手だというのに其れが死を口に出すことを否とするのか、本当に清廉潔白な魂を持つ男だと大谷は苦笑を漏らす。

――われとは違って……

この男がいてくれるなら、もう思い残すことはないのだと、自分など早々に退散するのが良いだろうと思っているのに、それを許してはくれないのもこの男なのだ。

「なぁお前たちはどうして、あんなことをしたんだ?」
「あんなこととは?」
「四国の事だ」

予想通りの問いかけに何を今更という瞳を向けながら大谷は答えた。

「長曾我部を西軍に入れる為、以外に何かあるかの」


――ああ、それは確かに真だろう、けれどそれだけではなかった筈だ。


「しかしお前達は四国の兵を生かしただろう、何故だ?アイツらが生きていては後に四国崩壊の真実が露見するかもしれなかっただろ?」
「やれ、まさかそんなことを言われるとは驚いた」

少し大袈裟に驚いてみせる。

「ぬし様はあの者達を殺しておけば良かったと申されるか」
「そんなことは言っていない!ただ……お前達の真意が知りたいだけだ」


そう、あの時、黒田官兵衛は四国の兵を殺してはいなかった。

殺さずに捕らえて毛利の領地にある無人島へ閉じ込めていたに過ぎなかった。
閉じ込めたと言っても水も食料も十二分にある島だから海に慣れた男達なら誰も死ぬことはなかったろう、ただ毛利の兵が見張っていて脱出が難しいだけだ。

「魚を騙すだけなら殺さずとも良いと判断したまでよ、われとは違い毛利は無駄な殺生を嫌うからの」

冷酷非情と言われる毛利の知略だが味方の犠牲を最小限に抑える策だと理解は出来る、残る駒は多い方が良いという合理的な考えの基であるけれど。

「実際、途中までは巧く騙されてくれておったし……」

航路から戻った長曾我部が見た死体は、毛利の捨て駒が戦場から適当に拾ってきた死体に長曾我部軍の衣装を着せた者だ。
特徴になる部分は潰していたし、狙ったのは家族のいない者達だったので禄に検分されずに海に葬られたのだろう。
あの時、もう少し長く長曾我部が四国にいればあの死体が己の部下達のものではないと気付いたかも知れないが、すかさず毛利が訪れ西軍へ誘ったのでそれも出来なかった。

「……解せないな」

山吹色の着物の襟が視界の隅でひらりと舞った。
徳川が腕を組んだのだ。

「なにがだ」
「毛利の事はよく知らないが、半兵衛殿なら策がバレる可能性なんて万が一にも残しておかないだろう、その教えを汲むお前も」
「……そうだな」

「お前達は最初からバレても良いと思って四国の兵を生かしておいたんじゃないか?東西を分ける戦いの後……」

否、

「自分達が死んだ後に解放するつもりだったんじゃないのか?」


予想外に生き残ってしまったけど……


「……ああ、そうよ……長曾我部が安芸を治めるようになればどうせ判ってしまうと思っておった……だが、まさかあのような伏兵が潜んでいたとは思わなんだ」
「ああ、そうだなワシも後藤と鶴姫には驚かされた」

徳川はくすりと笑う、彼にとっては嬉しい誤算だったのだ。

「あの二人が止めてくれたお陰でお前達を殺させずに済んだ」
「……」

そう言って己を見る表情が眩しくて、大谷は目を逸らし、包帯の捲かれた手を見た。

毛利と大谷の策が露見したあの日、毛利は長曾我部に、大谷は石田に凶弾され殺されようとしていた。
しかし二人が心の臓を貫かれる寸前、一閃の矢と奇刃が放たれ、長曾我部と石田の手を止めたのだ。

その時、後藤と鶴姫は黒田によって屠られた筈の四国の兵を携えていた。

「あれで冷静さを取り戻した三成と元親はお前達にトドメを刺さなかったのだからな」
「……混乱したの間違いではないか?」

最後に見た石田の顔はどうしても冷静を取り戻したようには見えなかった。
大谷は大きく溜息を吐きながら呟く。

「暗を巻き込んだことが間違いだったかのぉ」
「そうだな、黒田まで処刑されるかもしれないとあったらアイツの一の子分が黙っちゃいないだろう」

豊臣を離れた後も黒田の処遇や動向を気にしていたという後藤が雑賀衆よりも早く四国崩壊の正しい真相を知り、鶴姫の協力を得て毛利の領地より救出し大阪まで連れて来たのだ。
その所為で後藤は満身創痍であったが、お陰で黒田は減罰されたと聞いてどこか得意げな顔をしたという、その後は閻魔帳を達成させる等と言いまたフラフラと一人旅立って行ったが大丈夫だろうか?
柄にもなく彼の無事を祈る大谷だった。

「なぁ、本当に本当の事を教えてくれ刑部……お前達は最初からあの二人に殺されるつもりだったんじゃないのか?」
「またまた何を言うかと思えば……」

包帯に覆われた奥で失笑を零すのを見て、徳川は仕方がないと言った風に懐へ手を入れた。

「これを見てくれ」
「……ッ!?」

と、徳川が懐から取り出したモノを見て大谷は絶句し、慄く。
そこに有るのは、この時代では珍しい革張りで出来ている洋書だ。

「ぬし……何故それを」
「やはりお前の持ち物だったんだな」

それは西洋の呪術の方法が書かれた本だった。

「こうして下に落とせば自然と一番読まれた頁が開かれる、そこに書かれているのは……」
「そんなことより!何故それをぬしが持っておるのだ!!」

カタカタと震えながら本を持ち上げた徳川の手首を強く掴み、睨みつける。
徳川は静かにこう話した。

「左近がな、お前が薪の中へ捨てたのを見て拾ったそうだ」
「左近がか?」
「ああ、お前が本を捨てるのなんて珍しいから気になったそうだ……その、春画の類かと思ったらしい」

よく見ると装丁は溶け中の紙も所々焦げているが、読めない程にはなっていなかった。
大谷はどうしてあの時すぐに薪から離れてしまったのかと後悔する、革張りの本だから紙で出来たモノよりも燃えにくい事は考えれば解るだろう。

「しかし中を見たら外海の言葉で書いてあって読めなかったから外海の言葉に興味を持っていた柴田勝家に譲ったそうだ」
「あの子か……」

他人が捨てた物を勝手に拾い、それを勝手に他人に譲るとは、島には躾直しが必要だと大谷は痛む頭を押さえた。

「その頁を外国語に詳しい知り合いに訳してもらった柴田は、まさかと思いワシを尋ねてきたそうだ」

外国語に詳しい知り合いとは伊達に外国文化を教えた者だったが、その者はそれを読んだ途端「もしやコレの翻訳を頼んだ人物は片倉様ではござらぬか?」と怪訝な眼差しで柴田を見たと言い、もしもそこで是と答えていればけして翻訳などして貰えなかったろうと柴田が言っていたという。

「柴田が、毛利の左胸に眼のような刻印が浮かんでいないかと訊いてきた時は度肝を抜かれたぞ」

柴田は毛利の肌を見ていないのに何故解ったのかと……しかし、この本の内容を読めばよく理解出来た。

「毛利のあれは……己が元親の左目になる為の呪術だろう」

そう聞かれた大谷は頷くしかなかった。
こんな証拠があるのだから誤魔化しようがないだろう。

「ああ、そうよ……その本に書かれている呪をあれに施した……あれにどうしてもと頼まれてな」

その時の事を思い出してか、大谷の声が掠れる。

「われも初めは断った……そんなことをしても長曾我部は喜びはせぬと……しかし毛利はそれも理解した上でわれに頼んできた」

大谷はそこから、一つ一つ、主観を交えながら事の経緯を徳川に説明していった。

その本は毛利がある外海の宣教師と知り合った際、彼と共に来ていた商人から買ったものだという。
初めは眉唾ものだと思っていたが、試しに呪術者を呼び使わせてみた所、確かに成功するものと判明した。
毛利はすぐに翻訳師を呼びその本に書かれている全ての内容を翻訳させた。

その中の一項に、欠損した身体の一部を復元させる呪術が記されていたという。


「己が一番に情を向け、己に一番の情を向ける相手の心の臓に復元させたい箇所の刻印を刻み、そこを貫く」
「……」
「そうすれば、その者の魂を己の中に取り込むことが出来、失くしたものが蘇ると……書いてあった」
「何故毛利はそんな事を」
「どうせ潰える命ならば、愛する者の為に死にたい、愛する者の一部に生まれ変わりたい、そう望むことは……不思議なことではない筈」

いつ殺されるか解らない状況下、相手が哀しむかなんて考えてる余裕はなかった。


「われらは初めから西軍を勝たせる気はなかった……皆を生かす為の策を興じているつもりではあったが、皆を裏切っていた事には変わりない……どうせわれらは生きる価値もない人間よ」
「そんな事はない!というか刑部、お前達は最初から不戦敗するつもりで動いていたというのか?」
「ああ……太閤の仇を討ち、われが潰えた後の三成に国を治めるだけの理性が残っておるか……早々に殺されまた戦乱の世に戻るのは想像に容易い……それよりも、無理矢理であってもぬしと和解させた方が三成も生きやすかろう、左近や長曾我部の存在があれば自ずと理性も戻ろう」
「刑部、そんな」
「不戦敗なら同盟の者達も命までは取られまい、われらの卑劣な策に利用されたとして恩情も得られるであろうし……暗は、まぁ悪運だけは強い故どうにかして生き残るだろうと」

ぽつりぽつりと語られる言葉は全て真実だろう、この期に及んで彼が保身の為の言を口にするとは考えにくい、それに昔から矜持の高い大谷が旧知の仲である徳川の同情を引くような嘘は吐かない。


「……なぁ徳川よ」
「なんだ?」
「ぬしは、長曾我部の親友であったが……あの頃の四国をどれ程気に掛けておった?」
「あの頃とは」
「ぬしが豊臣を出て、味方探しに日の本中を駆けずり回っていた頃よ……まだ雑賀も雇っていなかったから時勢も把握出来ていなかったろうなぁ」

大谷の声が段々と恨み節に変わっていくのにつれ、徳川の顔も青ざめてゆく。

「われが毛利と同盟を組んだ時な、四国は全方位から狙われておった……そんな事にも気付かず留守にする魚も魚だが、その国を助ける力もない癖に絆という言葉だけで同盟を結ぼうとしたぬしも無責任よ、西国にある四国がぬしにつけば……あの島は周りから完全に孤立してしまう……現に毛利と組む前の豊臣方は仇敵であるぬしと懇意の長曾我部を攻撃しようとしていた」

毛利から長曾我部を仲間に引き入れる案が出されるまで豊臣には彼と彼の国を潰す計画しか存在しなかった。
「味方に引き入れた方が後々よいことがある」「あやつなら貴様が潰えた後、石田の良い友となるだろう」そう言われ始めて気付くことが出来たのだ。

しかしそれも今思えば己も彼の策に嵌っていたに過ぎないのだろう、その方がきっと正しい。

「ぬしは四国から遠く離れておったろ?四国が危機と聞いてすぐに駆けつけられる機動力はあったとして、その報せがぬしに届くまでに彼処は滅んでしまう……それにぬしは毛利と同じ、全の為に一を犠牲に出来る男だ……遠くで一人の友が嘆いていても、近くで多くの民が助けを求めていたら其方を優先させる……それは国主として正しい……だがな」

大谷の大きな瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ち包帯を湿らせてゆく、その手は血が滲むほど強く握られていた。

「毛利はあやつなりに四国を、長曾我部を守ろうとしておったのに何故、何故、ぬしが選ばれる……全てが長曾我部の為などとは言わぬ、ただ毛利は一番愛する者に恨まれてまで長曾我部の左目を蘇らせようとしておったのに……」
「憎まれてまで……って」
「ぬしも知っておろうに、呪術を成功させる条件はお互い一番の情を持ってなければならぬ、けれど長曾我部が一番愛する者を貫くなど無理なことよ、だから毛利は一番に憎まれようとして」


あんな策を企てたのだ。


「ヒッ……ヒグッ……ヒッヒッ……」

大谷は床に崩れ落ち、膝を抱えて嗚咽を漏らし始めた。
徳川はその横に寄り添い、ただ彼が泣きやむまで待った。

そして想いを馳せる。

毛利に、長曾我部に、大谷に、石田に、西軍東軍の武将、そして全ての民達。
この戦いで傷ついた者達に報いるにはどうしたら良いか、どれだけ考えても答えは一つしか出てこない。
これから先、誰もが“絆”を結べるような世に、憎しみや弱さすら包み込めるような国に、この日の本を作り替えてゆく。

それが己の責任だ。

「すまぬな……ぬしを責めるつもりはながなんだが……」
「良いよ刑部、ワシはお前達にそれ程のことをしたんだ」

ただ、民を想いしたことに後悔はしない。
すると大谷は徳川に穏やかな声で「いいや」と語りかけた。

「……われはな、健全で優しく人望のあるぬしをずっと羨んでいた……三成に傷を負わせたぬしが……傷を負わせられるぬしが憎くて嫉ましくてたまらなかった」
「刑部、そんなことはない、ワシから見ればお前の方がよっぽど」
「しかしな、感謝もしておった」
「……え?」
「ぬしはいつも周りに目を配らせ豊臣の兵を気遣っていた、誰も気付かぬような綻びにも気付きそっと直してくれていた、ぬしの傍は暖かいのだろう、ぬしがいる場所での三成はまるで木漏れ日の中で眠る子供のようで、われは見ているだけで幸せな気分になった……今のぬしを悪しとするわけではないが出来れば豊臣にいた頃のように戻ってほしい」
「……」
「三成に穏やかな未来が訪れるように、またぬしらが笑い合えるように、われはずっと見守っておるからの」

まるで遺言のような言葉だと思い、徳川は大谷の肩を掴んだ。
彼の言葉は優しい呪いのよう、これなら皆平等の不幸を望んでいた彼の方がマシのように想う。

「何故お前がその場にいないような言い方をするんだ!お前もワシらの傍にいればいいだろ!?この本の中にはお前の病を治す術だって記されているじゃないか!!」
「ああ、そうよな……しかし、その術を使えばわれはわれの力を全て失ってしまう」

魔法のように見えた呪術にはどれも対価が必要だった。
欠損した眼を復元させるのに愛する人の命が必要なように、病を治すには其れ相応の力が必要とされると記されていた。

「いいじゃないか、平和な世になるのだから、力なんてなくても」
「力の無いわれに生きる価値などあるものか」
「なんだと?」
「力無き者にはなにも成し遂げられない、われらは太閤の教えを忘れたわけではないぞ」

病に侵されても闘うことが出来たから、強いから己は豊臣にいられたのだ。
豊臣を石田の傍に変えても同じだ。

「三成に必要とされないなら、生きる意味などない」
「刑部……」
「なぁ徳川、長曾我部に毛利の心臓を貫くように命じてくれぬか?毛利もこのまま意味なく生きるよりは其方の方が良かろう」

眠ったまま目覚めない同胞を想い再び涙する、四国の兵を生かしたと知られた今、長曾我部は以前のように憎んでくれていないかもしれないが、それでも。

「このまま弱り朽ちてゆくよりは、愛する者の一部となる可能性に賭けてやる方がきっと喜ぶ」

毛利を昔から知る家臣から聞いていた。
以前より信仰していた日輪を毛利が今のように拝み出したのは長曾我部が片目を失ったと報せを受けた日からであると、それなら彼がなにを祈っていたかなんて誰でも解る事だ。

安芸の安寧と毛利家の繁栄ともう一つ。


「そうだな……昨日までならそれを聞いてやれていたんだが」
「へ?」

徳川の苦笑に、大谷はぱちりと大きな瞬きをした。

「毛利殿が目覚められたんだ」

そのままその目は見開かれ、思わず喜色が浮かぶ。

「真か?」
「ああ」
「起き上がれているのか?」
「ああ、そうだな……食事はまだ召し上がってくれていないが」
「ヒヒ……あやつめ、さては拗ねておるのだな」
「だろうな、今は元親が付きっ切りで看てくれているから余計意固地になっているんだろう」
「長曾我部が?……そうか、然様か……」

しみじみと、どこか嬉しそうに呟く大谷を見て徳川は昔と全然変わっていないと感じる。
どんな醜い手を使うようになったとしても本質は病に侵される前の賢く義理堅い彼と同じなのだろう。

「なぁ刑部、お前がその病を治す気がないならワシに治させてくれないか?」
「……は?」
「呪術の類に覚えはないが習えば出来そうな気がするんだ」
「なにを言うかと思えば……そうすれば己の能力を失うと申しておろうに」
「構わないさ、こんな能力むしろ無い方が良いとすら思っているんだから」

今まで散々大切なものを守ってきた能力に随分な言い草だと思いながら、大谷は徳川の話しを聞いた。

「ワシは今度こそ武器を捨て武力を捨て……絆の力でこの国を作って行こうと決めたんだ」

もう誰とも戦わず、誰も傷付けずにいたい。
その為に力を捨てることも厭わない、いや喜んで捨てよう。
力に恵まれた者がそんな事を言うのを聞いて、大谷の心に浮かび上がったのは不安の文字だった。

「しかし、さすればぬしに危険が迫った時どのように身を守るというのか」
「その時はお前達が守ってくれるだろう」

さも当然とばかりに言ってのける徳川に対しどうしてこうも自信満々なのよと溜息が漏れる。

「……しかたない奴よのう、その代わり今日話した事は他言無用よ」
「ああ、絆に誓ってワシの口からは誰にも言わない」
「?」

何か可笑しい。
「絆に誓って」というのも意味が図りかねるが「ワシの口から」も妙に引っかかる、まるで他の者の口からは漏れてしまうかもしれないと言うようだ。

「まさか……」

ハッとした大谷が窓の外に身を乗り出してみた。
すると窓の両脇の壁にピタリと付いている島と柴田がいるではないか。


「さ、左近!?ぬしら気配が……」
「へっへ、こんなとこ閉じこもってばっかいるから勘が鈍っちゃってるんじゃないですかー?刑部さん」
「刑部様……申し訳ございません、どうしても気になってしまった故」

ああそうだった。
この本を拾い、この本を翻訳させた二人が真相を知りたいと思わないわけがない。
しかし柴田はともかく島はよく黙ってじっとしていられたな。

「徳川……ヒドイ」
「別にワシは嘘は吐いておらんぞ」

そう言って笑う男に対し大谷は謎の敗北感に苛まれる……この二人の気配に気付けなかった時点で負けは確定していたのだ。
そもそも大谷は己が徳川をあまり責められる立場にないと思っている、理由はどうあれ徳川と仲を裂こうとしたことには変わりないのだから、これもちょっとした意趣返しだと思えば許せる範囲のものだ。

とりあえず島と柴田を部屋へ上げた大谷は、自分の前で二人を正座させることにした。

「左近、柴田」
「はい」
「なんっすか?」
「ぬしらよもやこのことを三成や長曾我部などに言わぬよな?」

禍々しい雰囲気を醸しながら瞳を細めて二人に問う、まるで脅しだと傍から見ていた徳川は思った。
一方大谷は必死だった。
真実を知られたからには秘密にしてもらわなくては、露見してしまえば長曾我部はともかくとして他の西軍の者は怒るだろう、怒りを向けられるのならまだ良いが同情されては堪らない。

「……」
「……」
「何故目を逸らす!!何故笑うぅ!!ッごほっガハッ」
「大丈夫っすか刑部さんんんんん!!!」

いきなり大声を出したからか咽てしまった大谷の背を擦る島と、おろおろと手を伸ばしたり引いたりする柴田。
石田以外にも大谷に優しい者がいたことを内心嬉しく思いながら徳川はこの先の事を考える。


長曾我部はこれからも毛利を最低な男だと思いながら愛し続けていくのだろう。
あれは海賊であり鬼なのだから一度手の内に入ったものを簡単に手離せるわけがない。


(毛利も早く気付けばいいのにな)


彼を一番幸せにする方法なんて、謀神でなくとも解る筈なのに……

窓の外で暮れてゆく日輪を眺めながら呆れたような息を吐く将軍なのだった。










【おしまい】