海はあまり好きではない。
あの男の魂が、今も尚ここに眠っている気がするからだ。

それなのに何故こうして来てしまうのだろう。
潮の匂い、波の音、水平線の向こうに見える霞がかった山の色。
靴の踵を捉える砂に煩わしさを感じて、立ち止まった。

海は全ての者が還る場所などではなく、海を愛した者だけが往く場所なのだろう。
風に舞う泡が、漂う光の粒が、深い安らぎを運んできてくれる。
どうして人はそれだけで満足できないのだろう。

人は遠く離れて初めて宝は故郷にあるのだと、気付くという。
愚かで、愚かで、愚かで、愛しい……

不意に、ひとひらの蝶が肩にとまった。
見覚えがある……海を渡る、空色の蝶だ。
小さい頃にもこの蝶が肩にとまった事があった。
残された者を一時だけ慰め、海の向こうへ消えてゆく。

もし自分がこの蝶のようであれたなら
あの船にどこまでも、付いていくことができただろうか……


今日は、そんな夢想を、葬った命日。




* * *





夏の終わり、黒田がゴールデンウイーク明けから造っていた露天風呂が完成した。
あまりに早く出来上がったので毛利は手抜き工事を訝しんだが、豊臣方の人間が揃って『慎重に慎重を重ねても失敗する黒田が手抜きなんて要領の良いこと出来るはずがない』と、本人にしてみれば不名誉な信頼を寄せていたのでその疑いは晴れた。
そして休みの度に黒田へ同行して露天風呂作りのサポートをしていた後藤は『官兵衛さん凄いの作ったんですよぉ、まぁ俺様が付いてたんだから当然ですけどぉ』と自慢していたので、実物が見たくなった。

「大谷、我と共に別荘へ行くぞ」

大谷のオフィスに突撃すれば、このクソ忙しい時期(大谷は年中忙しいが)に何言ってるんだ、という目で見られる。

「……ぬしは忙しく行く時間がなかったのでは無かったかの?」
「時間など作ればよかろう」

そりゃあ毛利は他人には最低限の寝食は摂取せよと命令している割に、自分自身はサイボーグかというくらい不眠不休で働き驚くべきスピードで仕事を片付けることが可能だが、それに付き合わされる周りの人間は堪ったものではないだろう、かくいう大谷もその一人だった。

「われと行かずとも長宗我部と行けばよかろ?どうせ場所はバレておるのだから」
「……」

確かに長宗我部は何度か黒田と後藤を別荘近くの港まで船で送っていっていたから知っている。
そして何も指摘されていないが毛利が別荘を建てた山が前世に二人で訪れた思い出の場所だという事にも気付いているだろう、指摘されても困るだけだが何も言われなくとも相手が何を考えているか解らなくて苛々としていた。

(長宗我部のことだから“気色悪い”や“未練がましい”といったマイナスなことは思うまいが……いや、どうであろうな)

それどころかトキメいていたが何も言われていない毛利は知る由もなかった。

(まあ長宗我部が何も言わぬうちは、旅行に行くことに関しては吝かではないが……)

交際はしていないといっても両想いである二人が旅行など行って間違いがあったらどうする、しかも別荘は人気のない山の中にあるのだ。

「あやつと二人でか?」
「そうよ、最近は長宗我部と過ごす暇もなかったからの、丁度いいではないか」
「それは貴様とて同じであろう、長宗我部と共に過ごしたくはないか」
「別に」
「ほぉ……」

大谷の返答に毛利の双眼が怒りに染まる、恐らくここで「長宗我部と過ごしたい」と答えても同じような反応が返ってくるのだから大変面倒くさい。

「長宗我部は良き友人であるし全く過ごしたくないと言えば嘘になるがの、ぬしの想いと比べれば小さきものよ」
「……なんだと?」
「それに今のわれはぬしらと過ごす時間があるなら三成と共にいたいと思うのでな」

別に毛利や長宗我部を蔑ろにしているわけではなく、二人を友として信頼しているから一緒にいる時間が少なくとも不安になることもない、とは言わずとも伝わっているだろう。

「……わかった」
「ん?」
「今回に限り石田が我の別荘に来ることを許可しよう、我と貴様と長宗我部と石田で行くのなら文句なかろう」
「まことか!」

石田と一緒と聞いて一気に顔と声が明るくなる大谷。
オフィスにいた彼の部下たちは一様に「そんなに大谷さんと一緒に旅行いきたかったのですか元就様」「他の方と行くという選択肢はないんですね」「まあ確かに元就様に付き合える方ってお二人以外いませんよね」「大谷さんを連れ出されるとコチラの仕事がキツくなるな……なんて思っていませんよ」「元就様に三成さんが加わるとなると……アニキさん大変そうですが頑張って下さい!貴方なら大丈夫!!」「ダブル旅行、楽しんで来てくださいね!四人とも」「仕事のことは我らにお任せください」と祝福モードだった。
ちなみに毛利も大谷も自分達の交際が職場で公認されていることを知らず、これでも一応周りに隠しているつもりらしい、毛利に至っては交際していないのに公認されているという可笑しな状態だ。

「み、三成に電話してくるゆえ、ちと待っておれ!!」

と、叫ぶように告げて退室していった大谷を見送り、彼の机の上にあった書類の山をちらりと見る。
プラネタリウムとフラワー園のプロデュースをしている彼は多忙だ。
フラワー園の方はそのうち助手である市に譲るつもりで既に殆どの仕事を任せているというが、まだまだ心配で目が離せないと言う。
市だって例に漏れず有能な人材なのだから少しはほっておけと思う、ただ大谷は魔王の妹が持つ魔性に中てられているわけではないので、そこだけは安心だ。
などと考えている内に大谷が物凄い勢いで帰ってきた。

「毛利よ!あのな!三成も行きたいと申し……ゼェゼェ」
「そうか」

急いで走ってきたのと興奮してか、息切れを起こしている……人は恋で変わると言うが、いい歳した男である大谷も石田が絡むとこんな感じだ。

「しかし我らの休暇は調整できるが長宗我部は無理かもしれぬな」

その時は三人で行くことになるけれど、まあ構わないか、石田のことも気に入らない所は多いけれど嫌いではないから……と、毛利は思った。
心配せずとも毛利が誘えば長宗我部はなんとしても休みを取るに違いないのだが、その辺のことを解かっていないのだった。


――その頃、石田のいる豊臣のオフィスでは……

「という事なので吉継と毛利の別荘へ宿泊する許可を願えますか?」
「構わぬが、くれぐれも物や自然を壊すでないぞ」
「ハッ!」

いい歳した男がわざわざ外泊許可をとるのもどうかと思うが、豊臣の方もいい歳した男にわざわざ忠告することでもないと思う、しかし言われた本人は粛々と聞いている。

「いいなー三成さま、俺も行きたいー別荘行きたいー!」
「というか露天風呂もう完成されていたんですね黒田氏もお疲れ様でございました」

全国放浪中の島津が土産に持ってきた大量の北海道銘菓をお裾分けに来ていた竹中と黒田と後藤の対応(という名の土産物色)をしていた島と柴田が二者二様の言葉を吐いた。

「いやいや、大したことないぞ」
「それより毛利さんの別荘立派だから官兵衛さんの露天風呂だけ貧相に見えちゃってさぁ」

他人の前では自慢しまくりの癖に本人がいる所では落としまくる後藤の言葉に、人の百倍メンタルが強固な黒田は少しもへこたれず。

「確かにそうだな……しかし見てろよ?いつかアレより立派な別荘を建てられるくらいになってやる」
「やめときなよ、君の野心は身を滅ぼす未来しかみえないよ」
「お前は……不運だからな……」
「おいぃ!お前さんらそんなハッキリ言わなくてもよくないか!!」

すかさず竹中がバッサリと、豊臣がしみじみと言った言葉に漸く少しへこたれてしまった黒田だった。

「え?そんなに不運なんすか?じゃあ競馬なんかで黒田さんが選ばない方選んだら勝っちゃう感じ?」
「左近……」
「お前ぇギャンブルなんか止めちまえって何度も言ってるだろぉ?」

呆れたように島を見遣る柴田。
後藤は島にちゃんと先輩らしいことも言っているらしい。

「だいたい官兵衛くんはお金の遣り繰り苦手だから別荘を建てるなんて無理じゃない?経営部のくせに」
「仕事なら出来るんだがなぁ……ちゃんと給料もらってる筈なのに何故か手元に残らないんだ」
「官兵衛さぁん、それ駄目じゃないですかぁ」

黒田のことだから大方部下に奢っているとか、困っている人に貸しているとかだろうから、ただの浪費癖のある島よりはマシであると思えるが、貯金も少しはなければ将来が不安である。

「はっはっはーお前さんが家計簿でも付けてくれると助かるんだがな、又兵衛」
「へぇ!?え?あ、え……?」

恐らく何も他意のない黒田の発言に動揺しまくっている後藤。

「大丈夫っすよ!黒田さん!俺もぜんっぜん貯金ないっすから!」
「左近……出来ることならお前の財布の紐を私が握っていたいくらいだ」
「え?あ……か、勝家?それ……え?」

こちらもあまり深く考えず思ったことを口にしただけの柴田に、島が動揺している。

「若いっていいよね、秀吉」
「……」

そんな四人を見守りながら「黒田はともかく島の金銭教育はし直さねばならぬだろうな」と溜息を吐く豊臣だった。

「しかし、あの様子では全く進展していないのだろうな……後藤め、折角吉継がお膳立てをしてやったというのに不甲斐ない」

竹中の耳に、この場にいて唯一の恋人持ち石田がブツブツと独り言を言っているのが聞こえた。
主にお膳立てをしていたのは毛利の方だが、彼の目には黒田と後藤の仲を応援している大谷しか映っていなかったのだろう。
竹中は内心で苦笑を漏らした。
今回のことで黒田の中では家族愛的なものが強くなったようだが、後藤の方は恋愛感情が強くなったと同時に相手へ対する壁も生じてしまったらしい、竹中は後藤から聞いたのだ。

『どう?好きな人と二人きりでいてドキドキしなかった?』

そう“憧れの半兵衛さん”に訊かれた後藤は、彼にしては素直に自分の気持ちを話してくれた。

『はぁ……そうですねぇ、改めて官兵衛さんの優しさっていうか人の好さに気付けましたし、作業してる時の逞しい二の腕とか汗をかく姿とかカッコイイなぁって思いましたけどぉ』
『けど?』

話している内容にしては表情が少し沈んでいるように見えた。

『土を掘ったり、石や木を運んでる官兵衛さん本当に楽しそうだったんですよねぇ……』
『……うん』
『それ見ちゃって、官兵衛さんが楽しそうにしてるのは俺も嬉しかったんですけど、なぁんか心がもやもやしてるって言うんですかねぇ』

それきり後藤は黙りこんでしまった。
竹中はきっと彼が前世のトラウマを思い出したのだろうと、胸が痛くなった。
本人は無自覚だったが島は黒田を穴蔵から出そうと必死で奔騰していたのだ。
それなのに竹中の一言が彼の行動を全て否定してしまった。

『黒田君は随分あそこでの生活を気に入ってるみたいだよ』

なんて残酷なことを言ってしまっただと竹中は自分を責めたけれど、後の木阿弥だ。

「今回、露天風呂造りを黒田くんが楽しめてたのはさ……又兵衛くんが傍に居て嬉しかった所為もあると思うんだけど……」
「それは、黒田自身が口にせねば伝わらぬだろう」

隣に立つ豊臣にしか聞こえないような小さな声で呟けば、そんな返事をされた。
確かにそう、しかし黒田は後藤の焦燥には気付いていないし、他人が教えるのも違うように思う。

「もう少し、時間が掛かるかもしれないね」
「全く世話の焼ける者共だな」

半ば呆れの入った言葉の中に慈しみの色が存在するのを見て竹中は微笑んだ。
かつては日ノ本全体を憂いでいた自分達が、今度は身近な者達のことを憂いでいる。
憂いで、心配して、模索して、空回って、無理をして、情を殺して、枷を付けて、許しを乞うて、傷を隠して。
それが豊臣方にとっての愛情の形なのだから、喩え報われずに終わっても、その愛を性懲りも無く続けていくしかないのかもしれない。
だがそんな世界で一番不器用な情を宿すこの男に付いて行く人生も、不思議と悪くはないと感じる。

「僕はどんな結果になろうと、此処のみんなの味方だよ……それだけは変わらない」
「此処とは、この【日輪豊月園】のことか?」
「まあね」

最初、毛利に誘われた時はどうやって此処を利用してやろうか、どうやって大谷を取り戻してやろうかと考えていた竹中、豊臣もきっと同じようなことを考えていただろう、しかし今は違う。

「毛利くんは変わったよ」

冷徹な謀神の印象は鳴りを潜め、かつて捨て駒と呼んでいた(今も呼んでいるが)部下達を手厚く扱い、社交的になり、友を大事にする。
沢山の柵の為に唯一の恋を棄てるようなところは未だ残っているが……そのことも含めて血も涙もある、ただの男へとなっていた。

「うむ……」
「みんな纏めて幸せになってくれたらいいね」


折角、争いの無い世に生まれてこれたのだから、あの頃の因縁なんて忘れて皆仲良くなれたらいい。
そう心から願ってしまう豊臣や竹中も、やはり前世とは違う人間だった。



* * *



結局、毛利達と長宗我部の休みを揃えることが出来たのは秋が始まったばかりの頃だった。
待ち合わせの場所に現れた私服姿の四人。
昨日までに大量の仕事を死ぬ気で片付けてきた石田と大谷の右下あたりに水色のゲージが見えている気がする。
一方お仕事サイボーグの毛利と頼れる野郎どもに留守を任せてきた長宗我部の表情は、今日の天気のように清々しかった。

「大丈夫か?大谷よ」
「すまぬな、毛利」

まだ黒田がセスナの免許を取っていないので別荘へは長宗我部の船で行くことになった。
先に乗船した毛利が大谷に手を差し伸べると、大谷はなんの疑いも無くその手をとり船に降り立った。
船上で大谷の身体を支えながら、まだ陸地にいる石田を不敵な顔で見上げる毛利、これは怒っていいと思う。

「貴様ァ!!吉継を離せ!!」
「足場が不安定なのだから仕方なかろう?貴様も早く降りてくるといい」
「三成、揺れるから気をつけてな、ほらわれの手に捕まれ」

と、毛利に掴まったまま石田へ手を差し伸べる大谷。
勿論その手を拒める筈もなく、逆に自分の方へ引っ張るようにして石田は船に降りた。
その結果、足を着けた途端によろけて三人ともグシャっとこけた。

(なにやってるんだアンタ達)

間に挟まれた大谷が脱出した後も重なり合ったままキャンキャンと吼えている石田と毛利。
これから連泊するというのに、のっけからこの調子で大丈夫なのだろうかと不安になると同時に、いつまでくっ付いてるんだよ! と怒りも湧いてくる長宗我部だった。

「よし、では頼んだぞ長宗我部」

と、他人の運転する乗り物がだいたい苦手な筈の大谷が意気揚々と言い放った。
今回は乗船直後から石田と毛利の二人と腕を組んでいるので強気なのだ。

「出発だ長宗我部!」
「よろしくな長宗我部!」
「へいへい……」

三成と元就で両手にナリ状態の大谷を少々羨ましく感じつつ、長宗我部はエンジンをかけた。

(アイツらに触られるのは抵抗ないんだよな毛利の奴)

あまりスキンシップを好まない性質の毛利が、昔から大谷と鶴姫には気軽に触れていたのを思い出す。
最近はそれに柴田が加わったと思ったら、どうやら石田も大丈夫な様だ。
いったいどういう基準で許しているのか解らない。

(まあ俺が触るのは嫌がってる感じしねえから良いけど)

他の人間が触れるのは、たとえ身内で合っても厭がる毛利が、長宗我部が触れる時は同じような態度をとりつつも嫌悪感を感じさせない。
本当は触って欲しいんじゃないかなんて都合のいいことを考えてしまう程に……

「三成よ、庭の露天風呂はもう入れるらしいぞ」
「ああ……一緒に入るか?貴様よく湯あたりを起こしていただろう?」
「……え?あ、いや一人で大丈夫よ、この身体は丈夫であるし」
「貴様もしやまだ大谷を前世と同じと見ているのか?」

石田の言葉に毛利の声がギラつく。

「違う、だが私も前世を思い出してからあの頃の体質が蘇ってきたようなきらいがあるからな」
「……ああ、能力も使えるようになった筈ゆえ、その影響が出ているのであろう」

長宗我部の“炎”や毛利の“光”ならそう心身に影響はないが“闇”は時に術者を呑み込もうとするから厄介だ。

「気を付けよ」
「解かった……貴様もな」
「あい、われは大丈夫よ……ぬしがわれの傍にいてくれる限りの」
「……吉継?すまない最後の方が聞き取れなかったのだが……」
「貴様は本当に大事なところを聞き逃す者よなぁ!!」

今度はブチギレている、いったい毛利は石田と大谷の仲をどうしたいのだろう。

「あーもうアンタら!今日は絶好の海日和だぜー!喧嘩してねえで景色見ろよ!!」

運転席から長宗我部の叫び声が聞こえてきた。
それもそうだなと、石田と大谷は素直に海を眺めるようにしたが

「ふん……海バカが……」

毛利はつまらなそうに呟いた。

(すっかり秋になってしまったな……)

彼だって海を見て季節が解かるくらい海に親しんできた癖に。

(あの花はまだ咲いている時期だろうか……)

今夜、他の三人が寝静まった後にでも行ってみようか、あの時の場所へ。
夜なら花は萎んでしまっているかもしれないが別にそれで構わない。
きっと長宗我部は正確な場所までは憶えていないから自分が案内しない限りは辿り着けないだろう。

(それでいい――別に想い出話がしたくて買ったのではないのだから)


ただ、彼が……弥三郎が植えた“芙蓉の花”が誰かの手で刈られてしまうのが許せなかっただけだ。
未練かと聞かれたら、そうかもしれないが……きっと未練とも違う。

(せめて、弥三郎のことだけは独占していたいのか、我は)

大切で大好きだった友人にとって唯一の太陽であれた頃の自分を棄てられないのか、ひょっとして……
成人した“弥三郎”を“長宗我部”と呼ぶようになり、彼も“松寿丸”を“毛利”と呼ぶようになった。
そして“長宗我部”の太陽は……東の権現へと変わった。



「……」


運転席から毛利を見詰めていた長宗我部は、眉を一人顰めた。
なにを考えているのか知らないが、曇り一つない瞳で空を見上げる毛利は美しく――

どこか、切なく見えたのだ。






END