長宗我部の死後、西軍はバラバラになるかと思いきや、これまでにない纏まりをみせていた。
処罰されるどころかこれまで以上に気遣われるようになった毛利と大谷に、真田の忍は笑って言った。
皆が優しいのは汚れ仕事を旦那達だけにさせてしまったという罪悪感と、これからは誰も欠かすことなく決戦に挑むという意気込みからだよ、と。
実際、石田はそう言って二人を許し、長宗我部を死なせてしまったことを謝罪した。

『貴様らも、あの男も、私が護るべき者だったのだ』

彼の深い後悔を刻んだ表情に、彼よりも傷付いた表情をした大谷、包帯と頭巾で隠されているけれど、そこにいた全員が解った。

『覚えておけ、貴様らの傷は私の傷、貴様らの穢れは私の穢れ、貴様らの死はすなわち私の死となることを』
そう言われても、きっと大谷はそう思えなかっただろうが、他の者はその言葉に深く頷いた。

『これより先、誰一人として死ぬことは許さない』

総大将の命により、西軍の結束はより一層固まったのだ。
毛利は溜息を吐いた。
石田の決断は正しい、東軍勝利の為なら自分や大谷の智略は絶対必要だ。
彼が誰の死も許さないと本気で言っているのだと解る、あの男が言うことは口先だけの綺麗事ではないと大谷は何度も言っていた。
他の武将が家臣の死を悼まないなどとは思わないがけして耐えられないものではない、腹心の死すらいつかは乗り越えられるものだ。
だが石田は……――

『危うい男よな』
『なんだ?』

長雨で体調を崩したという大谷の元へ見舞いに行くと、障子の前で立ち竦んでいる石田を見つけた。
石田が毛利を睨む、一応仲間とは認められているが性質上好かれてはいないのは彼の態度を見れば解かる。

『大谷は?』
『寝ているところだ……後から出直せ』

恐らくそれで立ち往生していたところなのだろう、中で目覚めるのを待っていれば良いと思うが……

(無防備な大谷を見て己が何をするか解からぬからか)

毛利は大谷の情だけではなく石田の中にある欲望にも逸早く気付いていた。
二人がこれからどうなろうと知った事ではないが、一度結ばれてしまえば切れぬ絆になるのだろうとは思っている。
自分も長宗我部と関係を結んでいたが、この二人のようにはなれないのだろう、男同士だとか領主同士だとかではなく毛利と長宗我部だからだ。

『大谷はまだ目覚めぬのだろう……ならば我に少し付き合わぬか』

この男は首を縦に振らないだろうと訊ねてから思った。
何故自分がそう訊ねたのか明確な理由は思いつかない、もしかすると雨の入り込む縁側にずっと立たせておくのは忍びないと感じたのか、まさか。

『別に構わない』
『……』

無駄な時間を使うことを嫌う石田が了承したというのに驚いた。
長雨で碌な鍛錬が出来ないからか、夏に備え身体を休めておくよう大谷に諌められているからか、理由は幾つか浮かんだが、机に座ってする仕事もあるのだから当てはまらない。

『なにをするんだ』
『そうだな、将棋でもしようか』

大谷が体調を崩してから指していないし石田の器量を測るよい機会だと思って提案した。
石田は解ったと短い返事をし、場所は毛利の部屋となった。
二人とも無言で、雨の音と駒を刺す音だけが落ちる、この時の毛利は不思議と穏やかな気持ちだった。

『昔、半兵衛様に言われたことがある』

暫く指していると、脈絡なく彼の口から豊臣の軍師の名前が漏れた。
まだ将棋を覚える前、竹中が同僚と将棋を指すところを見学したのだと前置きして、

『“君は僕の駒が取られて悔しそうな顔をしたけど、あれは捨て駒だから無駄ではないんだよ”……と』
『……そうか』
『貴様の采にも無駄がひとつもないな』

石田は勝利の為なら仲間の兵を平気で切り捨てる毛利を快く思ってはいない、それでもそれが最良の策なのだろうと理解している。

『私のことも無駄だと思えば捨てるのか』
『……フッ』
『何を笑う!』

雨の静けさと毛利の冷静な将棋が石田を心細くさせたのだと毛利は可笑しくなった。
ばかばかしい。

『どこの世界に己が将を見捨てる軍師がいるというのだ』

恐らく何処かにはいるが、石田の世界には一生現れないだろう。

『よいか、軍師というのは皆嘘吐きなものだ。戦では騙し討ちを使い、それ以外では人を欺き自軍の利となるよう物事を進めるのが仕事だ』

けして信頼などされてよい存在ではない。

『だが、己が将だけはけして裏切らない』

毛利にとって“将”とは己であり家であり安芸であり、今は仮初めとは言え石田のことだ。

(この戦いを終えれば安芸の繁栄の為に利用されて貰うがな……豊臣の仇をとった後ならば我の好きにしても構わぬだろう)

大谷はもう永くない。
石田が天下を手に入れても恐らくマトモに機能できるのは彼が生きている内だけだ。
彼が大谷の死を乗り越えられるとは思えない、身体はどうにか生かされてもきっと心は死んだままだ。
そんな将軍を裏から操るのは容易い。

『毛利……』
『貴様は我らの総大将ではないのか』
『そうだ、だから護ると決めた』

自軍だけでなく己の下に集まった全ての力を護り通すのだ。
豊臣秀吉の後継者として、豊臣が理想とした強い国を作る為に徳川を倒す。

『……ふん貴様の采もなかなかのものだな』

あまりに真っ直ぐ言われたので毛利は思わず話を変えた。
戦闘にばかり特化していると思えば頭脳の方も優秀であるらしい、これはやはり利用できる男であると確信した。
安芸が日本の中心となる日も近い。

『……』
『なんだ?』
『いや、技量も知らぬまま私の下に来たのかと思ってな』
『同盟などそんなものだろう……まぁ大谷と書状の遣り取りはしておったがな』

他の者は噂や評判、武功などしか知らなかった。
ここにいるのは烏合の衆だ。
だからこそ昔馴染みの大谷をもっと大事に扱ったらどうかと思っているが石田も毛利には言われたくないだろう、彼が古くから知っていたのは長宗我部くらいで、今はその姿を見る事ができない。

『刑部とどのような遣り取りをしていたんだ?』

共謀して長宗我部の故郷を屠った二人の書状の内容など碌なものではないと思わないのか、興味津々というより嫉妬満々という様子の石田に呆れる。

『そうだな……大谷は随分と貴様のことが大事らしい』

石田三成について露わす一文一字から彼の愛着が見てとれたことを思い出し笑みが漏れる。
毛利の笑顔という珍しいものを見ても石田は気にも留めず、言葉の内容に引っかかりを覚えた。

『刑部が……私を?』

今でこそ色々と世話をやいてくるが、大谷が病を得てから距離を置かれたように感じている、自分に付き従うのも共に豊臣の仇を討たんが為だと思っていた石田は驚いたように瞳を見開く。
大谷も鈍いがこの男も大概である。

『貴様らには会話が足りぬのだろうな、二人でゆっくり湯治でも行ったらどうだ?真田の領地にあると言っておったぞ』
『私にはそんなことしている時間は』
『無論、戦が終わった後にだ……あの男を労うくらいしても貴様の主は怒らぬだろう』

息を詰める、主の名を出すのは卑怯だったかもしれないが、石田も大谷ももっと仇をとった先のことを考えればいい、自分のように家や領民のことではなく、己自身が変わっていく未来についてだ。

『王手』
『……参った』

いつのまにか投了していた。
石田も善戦したが結局この軍師には敵わなかった。

『雨も止んだようだな』
『ああ……刑部はまだ寝ているかもしれないが』

雨音が消え、窓から白い光が注している。
石田は見舞いに行きたいが、まだ早いかと躊躇しているように見えた。
ばかばかしい。

『やつの庭からは、あの虹がよく見えるだろうな……よし、我が起こして来よう』
『何?』
『情緒的なものを好むやつの事だから後になって何故虹が出ていたのに起こさなかったのかと怒るかもしれん、そんなものは御免だからな』
『……待て、それなら私が行く』

渋茶を飲んだような表情の石田を見て愉快になった。
そんな詰まらぬ事で大谷に怒られるという毛利に嫉妬したのか、だからそれは会話が足りないのが悪いのだろう。

『やはり貴様らは二人で旅でもすれば良い、我が厳島など歓迎するぞ』

復讐と不幸を望む者が神社参りをするなど、想像してみれば、いやに愉快な光景だ。
だがそれを眺めるのも悪くないと思えた。
この時、毛利元就は最後に生き残るのは己のつもりでいても、石田三成を関ヶ原で死なせるつもりはなかった。
此処にいる者は烏合の衆であり、水魚の交わりでもあった故。



* * *



PM0:00

広島から岐阜へ向かう途中の新幹線の中、毛利は懐かしい夢を見ていた。
本家へ顔を出した後は厳島に参って帰るのを習わしのようにしてきたが今回はそれも止めてしまった。
窓の外に大きな虹が見えると、前の席の家族連れが楽しそうに騒いでいるのを聞いて毛利はまた瞳を綴じる。
本家の現当主と次期当主、毛利グループの跡継ぎは皆前世で毛利の家臣だった者だ。
今も三本の矢となり毛利家を支えてくれている彼らを、自分よりだいぶ年上であるが可愛く思っているし、感謝もしている。
その三人が揃って「そろそろ長宗我部殿と正式にお付き合いされては如何ですか」と言ってきたのだ。
彼らとて養子であり血の繋がった家族のいない毛利に家庭を築いて欲しいという願いはあれど、毛利の前世より続く一途を知っているので半ば諦めていた。
冷血かつ腐れ外道な癖して恋愛方面は潔癖というか融通が利かないというか、家臣が側室や妾を作っただけで不浄なものを見る目を向けていたのを思い出す。
たかが養子の一人が同性愛者だとしても毛利グループの名にひとつも傷は付かない、武家には昔から衆道という文化があり、家の者は殆ど理解している、批判する人間は少なからずいるだろうが貴方や長宗我部殿の人とは違った生い立ちが味方してくれる、不幸な境遇を利用してやるのです。
と、若干どころか凄く酷い理由を並べ、長宗我部との交際を推してくる、同じ創始者である大谷は石田と交際しているんだから、と言われた時は流石にキレた。
石田と大谷は関係ないだろう、というか何故知っている、調べさせたのか、あの二人の事はそっとしておけと怒鳴り立てると、本家の三人は優しく微笑んできた。
私達はあのとき貴方が亡くしてしまった仲間も友人も恋人も今生では全て手に入れて欲しい、もう貴方なにも我慢しなくて良い、自由に生きて良いのです。
そして最後に、男同士に生まれたことを嘆くより、同じ時代に生まれて出逢えたことを喜べば良いと言った。

(……だが、今更どうして交際など申し込める)

だいたい前世で亡くした恋人と言っても長宗我部が最期に想っていたのは己ではない、彼の想いはとっくに徳川へと移っていた。
その証拠に徳川と仲睦まじくなってから長宗我部は毛利と身体を繋げていないし、何やら綺麗で格好良くなった気がしていた。
真相は徳川監修の下“肉体改造して次に抱き合う時に毛利を驚かせよう”という男らしいんだか乙女チックなんだか不明な作戦を企てていただけだが、その作戦を実行する前に四国壊滅の方が実行されてしまったという。

(あの男は忘れているだけで徳川の方が好きなのだ)

毛利は閉ざしていた瞳を開く、もう虹の見えない場所まで来ていた。


『毛利!ぬしも此方へ来て見やれ!まこと見事な虹が出ておる!』

『あ、見てみろよ!宮島に虹が掛かってやがるぜ!』


雨上がりの空がいつもより遠く感じるのはどうしてだろう――



* * *



PM7:00

夜道の塀の上、ショルダーバッグの外ポケットに入れておいた携帯電話を取り出し、着信履歴の中から目当ての人を探す。
丁度両足を揃えて置ける程の幅しかない塀の上をゆらゆらと歩くのは猿飛佐助の生まれ変わりこと猿飛佐助、強い風が吹けばひとたまりもなく闇の中へ堕ちてゆくのだろうなと彼はクスリと笑った。
呼び出し音を右に聴きながら左耳で周囲の様子に気を配る、夜目がきかないなら耳が頼りだよと教えてくれたのは自称素敵紳士ないつかの雇い主さん、でも今は暗い夜道なんて怖くもなんともなかった。
携帯電話は尚も呼び出し中、あの時代にこんな伝達技術があれば楽だったのに等と考えて、それはそれで更に戦を難しくしただろうと首を振る、あったとしても良いことなんて最後に遠く離れた主と会話ができたくらいなものか。
右耳から音がぷつりと切れる。

「あ、チカちゃん?佐助だけど今大丈夫?」

きっと大谷や柴田は島の方で手一杯だし、伊達はまだ記憶が戻ったばかりで混乱している、片倉は彼と面識がない筈、だから今この時点で長宗我部に連絡を入れられるのは自分だけ、猿飛は気分が上がっていくのを感じた。
また、皆の為に働ける、今なら忍だからって除け者にされない、また一緒に戦えるんだ。
頑張って役に立てばきっと伊達にも認められる……電話先の長宗我部と明日の約束を取り付けながら彼は乾いた笑みを浮かべていた。

「ねぇ、傍に誰かいるの?……鬼の旦那」

電話の向こうから息を呑む気配がした。
恐らく徳川家康と本多忠勝を泊めているのだろう、そして記憶が戻っているのにそんな素振りが出来ないのだろう、長宗我部は前世で徳川を信じきれなかったのだから言い出し難いだろう。

「……うん、それじゃあ、明日の二時にね」

電源を切った猿飛はその細長い電話を手裏剣のように回しながら元のポケットの中へ仕舞う。
今彼は誰も見ていない所にいるから、誰も彼の危うさに気付かない。



* * *



PM9:00

此処は県内にある旅行雑誌・タウン情報誌の出版社。
表向きはそんな会社だが裏でスパイ派遣会社もしている、勿論一般市民には秘密だ。
稼ぎ頭の猿飛とかすがが居なくなって、だいぶ勢力は落ちてしまったが優秀な社員がいると裏社会での評判は高い。

「ふーん、松永くんが織田くんの妹さんにコンタクトをとったんだ」

社長である最上は【六魔大地園】に忍ばせている間者からの報告を聞き、白手袋をつけた指で自慢の髭を撫でた。
その間者は前世で伊達に仕える忍だった者、というかこの会社には戦国時代に活躍した忍者の生まれ変わりが多く在籍している。
別に集めている訳ではないが過去の因果か壮絶な境遇で生まれた者達を最上が引き取って雇っているうちに自然とそうなったのだ。

「いったい何を企んでるんだろうねぇ彼は」

楽しそうな声の心の内では九尾狐が牙を剥く、今生の彼は別に腹に逸物隠すタイプではない、少し裏社会に顔のきく普通の人間だ。

「んー彼が狙うとすれば風魔くんだろうけど彼はもういないし……」

前世との一番の違いはマトモに人の名前を言えるようになった事だろうか、今の最上は他人から嫌われることを極力避けている。

「そういえば最近は毛利くんにご執心のようだったね」

困ったように眉を下げて伊達の忍だった男に同意を求める、彼は無言で頷いた。
秋にあった石田と長宗我部の転落事故の一件以来、松永が毛利の動向を気にしているという情報は入ってきている。
ただ毛利の周囲は警備が厳し過ぎて直接手を出したり調べたりは出来ないようだ。

「まぁいいや、引き続き松永くんの監視と……市さんへの監視もつけてくれたまえ……いいかい?絶対バレないようにね」

松永には片倉や大谷も警戒していたが、その二人が揃って柴田の家に集まっている隙に市を呼んだ。
ということは彼らの動向を松永が把握しているという事であり、そうなると自分達も油断は出来ない。

「彼の執着がまだ恋心といったような可愛らしいものならいいんだけどね」

あの幼児がそのまま大人になったような男は、本気で欲しいと思ったものを手に入れる為なら手段を択ばない。
戦国時代の大谷だって、平等に不幸の星を振らせたいなど酔狂なことを望んでいたが、その手段として選んだ方法は規則に背かない義に適っているものだったというから、まだマシだ。
もっとも彼の場合は本当の目的が他のところにあった所為かもしれないけれど、と、そこまで考えて最上は首を振った。
兎に角、松永という男は危険なのである、彼の指先ひとつで漸く築いてきた皆の壊してしまいかねない、まあ別に自分には関係ないけれどとも思うが、あの園には甥が世話になっていたりするのだ。

「なんか重要な情報掴んだら政宗くんと取引きしようかな」

良い事を思い付いた!と手を叩く最上、見ると今まで萎れていた髭がピンピンと伸びていた。

「条件はたまには実家に戻るように!これで決まりだね!」

伊達の両親が自立して以来ほとんど連絡してこない彼のことを心配していると、先日遊びに言った際に聞いたのだ。
彼の前世と一番の違いはひょっとすると“家族想い”なところかもしれない。



* * *



PM11:00

夢を見た。

『吾輩の妹も、君みたいに幸せだったのかな……』

特徴的な髭をした男の人が、目の前に立っている、彼の後ろに大きな狐の影が見えた。
狐狸の言うことは本気にしてはいけないと教えられてきたけどアレも嘘だったのだろうか、嘘であんな瞳が出来るんだろうか?
いつも愉しそうに笑う人だったけど、いつもふざけて怒られてたけど、きっと本当は違う。
とてもとても怖い人だ。

『家族に嫌われるって結構悲しい事なんだよ』

そう、良いことを教えてくれた。
それだったら

(市は……)

大事なものを全て奪っていく、この人が

『兄様なんて大嫌い』

織田が此処にいるということは柴田と島はもうこの世にいないのだろう。
それでも柴田は最後に大事なものの為に戦えたのだと思えば少し羨ましい。

(市も)

目の前の兄を見据えて、もう一度言う、この言葉がこの人の中に少しでも残れば充分だ。

『市は兄様なんて大嫌いよ』

眉間に深い皺が寄せられる。
自分の言葉でこの人は怒ったのだ。

『でも、兄様は市のたった一人の兄様……だから』

この世で一番怖いことは、自分が死ぬことじゃない、忘れ去られることでもない。
大切な人が死んでしまって、その人を忘れてしまうことだ。
それに比べたらきっと……

『一緒に行こう?兄様……』

自分の額に照準を合わせる織田に市は“手”を伸ばした。
共に闇になってしまえばもう、この人を怖いと思うこともなくなるのだ。



『信長公!!』


どこかから、聞いたことのある男の人の声がして、それから少し遅れて――空の上からもう一つの声が


『行くな市ィ!!』


――ッ!?



「市?」


この声は


「市……どうした?眠いのか?」
「長政……さま?」

気付くと其処は浅井の家のソファーの上だった。

(そうだ、市は長政さまと映画を観てて)

その途中で眠ってしまったのだろう、先程おかしな夢を見たのもその映画の影響か。
黒いテレビ画面にエンドロールが流れている。

「寝るならベッドに行くか?」
「うん、長政さま運んで?」

そう言うと照れ屋な浅井の顔は茹蛸のように赤くなったが、数回咳払いをした後「仕方ないな」と市の脇と膝の下に手を差し込んだ。

「ふふ……ありがと長政さま」
「今日はどうした?子どもに返ったように甘えて」

普段から精神年齢の高いとは言えない彼女だが、こんな風になったことはない、嬉しいけど少し心配になった。

(まさか職場でイジメに?いやそのようなことがあれば大谷殿が黙っていないだろう)

それに市に問題が起これば同じ園で警備員をしている浅井に情報通の猿飛から報せが入る筈だ。
そういえば今日は市は来るのが少し遅かったが、関係あるんだろうか。

「ううん、なんでもないわ……長政さまは何も心配しなくていいの」

胸の中でうつらうつらしながら呟く市に愛しさが芽吹いていく、本当に可愛い。

(大丈夫よ、市はなにも怖くない)

傍に彼の体温さえあればそれで市は幸せだった。
此処にくるまでに会っていた松永のことなど忘れてしまえる。
しかし松永に頼まれたことは忘れていない。


――息子の忠勝が一人になるとすれば、彼の回診が終わる二時過ぎだろう。できればその時間にあの子を連れ出して欲しい。


(わかったわ、松永の小父様……)


兄の友人が自分を頼ってきたのだから、必ず成し遂げてみせる。
そう決意したまま市は深い眠りに落ちていった。







END