ノブの壊れたドアを見詰めたまま、先刻出て行った人間の面影が完全に消えるまで俺は微かにも動けなかった
喉が詰まる感覚から漸く解放されると壁に手をつき、ズルズルと床に滑り落ちる

−−疲れた

毎度思う、その言葉が声になっていただろうか

先程まであった濃密で泡沫ような時間は文字通りアイツの中から泡のように消えてしまう

−−折原臨也

アイツの行動の意味も望みも、俺には理解できなかった



『ねぇシズちゃん大好き……好き、愛してる……』

臨也は土曜の夜だけ別人になる

黒ではなく白いジャケットを身に付け
嘲笑ではなく微笑みを湛えて

『いつも嫌いって言ってるけど、本当はね大好きなんだよ』

きっとこの臨也なら人を陥れたりはしない、まるで悪魔が天使に変わってしまったかのように醜悪さや毒々しさは抜けてしまっていて
嘘一つない綺麗な声でただ純粋に愛を囁く

そんな臨也に俺は怒りもせず静かに耳を傾ける
返事はしない
どうせ耳に当てている白いヘッドホンで遮られるのだから



臨也は毎週土曜日に俺の家に来るが、それを自分で覚えていない
本人に聞けば翌日の朝、正確には新宿へ帰り眠りにつくまでの記憶が一切ないらしい

だから違う日に池袋で会えば当然のように殺し合う

俺が侮蔑の眼差しと罵倒を浴びせれば臨也は冷血な目線でそれを捕らえ嘲りの言葉を降らせる

他人にどう言われようがそれが俺達の日常で常識だった


筈なのに


あの日から、あの夜から俺だけが変わってしまった


『ねぇ……抱いて?俺をめちゃくちゃに壊していいよ』

甘く
誘われるまま、俺は臨也を押し倒した
最初の夜と同じように



♂♀



金曜日までの俺は、今この姿を見て何と言うだろうか

「ねぇシズちゃん大好き……好き、愛してる……」

無様だから止めろ
それはお前の愛する人間じゃないと怒り狂うかもしれない

「いつも嫌いって言ってるけど、本当はね大好きなんだよ」

明日の俺は今の俺を覚えていなくとも、今の俺は昨日までの俺を覚えている
俺は狡くて穢くて気持ち悪くて、本来生きてはいられない
こうやってシズちゃんに触れる事などけして赦されない存在だった

「ねぇ……抱いて?俺をめちゃくちゃに壊していいよ」

それなのに今夜も俺は誘う
こんな醜い俺なのにシズちゃんは無言で乗ってきてくれた

酷くして良いと言ったのにシズちゃんは腫れ物を扱うみたいに優しく俺に触れて……声を聴くのが怖くて着けたヘッドホンのコードが何時の間にか二人の腕を括らせていた

「……っシズちゃん!シズちゃん!!」

自分の喘ぎ声が気持ち悪い

ああ厭だ

こんな姿を愛する人に曝すなんて

……俺がこんな風になってしまったのは、何故?
恐らくシズちゃんにロシア人の後輩が出来たからだと思う
その子はシズちゃんにとって運命みたいな女の子だった

「お……お願い……他に誰がいてもっ……俺は君が好きだから……やめないで!!」

一瞬、変な顔した−それでも男前な−シズちゃんが何か言ったけど俺には聞こえなかった

殺したいほど憎いんでしょ?傷つけて、壊してやりたいって思ってるんでしょ?だったらそれをすればいいじゃない
本命の彼女に出来ないくらい激しく大嫌いな俺を犯せばいいじゃない

なのに……いったいどうして?



♂♀



『お……お願い……他に誰がいてもっ……俺は君が好きだから……やめないで!!』


言われた瞬間、言いようのない切なさが胸を支配した

お前以外に欲しい奴なんかいねぇよ!!
どうして俺がお前に応えているのか解らないのか!?

そう叫んでやりたかったが小さく否定するに留まった

コイツはあくまで臨也の一部で、俺が真に求めるものではなかったから

いくらコイツが俺を好きでも臨也の大部分はずっと俺を嫌悪したままなんだ



♂♀



シズちゃんの家から自宅へ帰り、後処理を済ませるとすぐベッドに落ちた
犯された疲労感より性欲が満たされた充実感が強くて、切なくなった

明日目覚めれば全て忘れてしまってるんだろう
シズちゃんを好きな事も忘れて本気で殺しにかかるんだろう
馬鹿、そんな事してていつか本当に死んでしまったらお前はどうなるんだと怒鳴ってしまいたい

いっそシズちゃんを護る為にあのロシア人から殺されたい、もう生きてるかも解らなくなったから

自分を護る為にシズちゃんを愛する気持ちを心の奥に封じ込めた卑怯者、その報いで生まれたのが今の俺

金曜までの俺は毎週土曜の記憶がないのを夢遊病だと思ってる
それを聞いた新羅が複雑な表情をしたから、きっとシズちゃんからも相談されてるんだろう

『いつも困らせてごめんな、新羅』

そうメールを打って、送信して、削除した

本当は新羅だけじゃない謝りたい人、謝らなきゃいけない人なんて沢山いる

全ての罪を償って、真っ直ぐ君に向き合えたらどんなに良いだろう

白い服に自分の黒さを隠さずとも、耳を塞がずとも良いように

そう思ってしまうのは今の俺がいつもより幾分かマシな人間だからか……
それともやはり卑怯だからか


「解らないなぁ」


解る筈がない

なんといっても俺はシズちゃんへの恋心の塊なのだから



♂♀



土曜の夜が永遠に続くなら

こんなに悩むことはなかっただろう