己の人生の中で最大の選択と言えるものは何だったかと聞かれれば
妹子は迷わず『あの時』と答えるだろう

「構いません、何があろうと」

あの時、ああ答えたから、己の道筋は決まった

「僕は、あの人の元へ戻らなくては」

その為なら何だってすると、確かに妹子は思った
その道が千年以上もの間、己を苦しめるとも知らずに



「妹子様、妹子様」


己の名前を呼ぶ声にうっすら目を開くと、ここ数ヶ月ですっかりお馴染みになった部下の困り顔が見えた。妹子は辺りを見回す
どうやら船の甲板で居眠りをしていたらしい

「起きられて下さい。そろそろ倭国に到着しますよ」

そう言う彼は今回の同行者だった

「ん、わかった…すぐ準備するよ」

「もー、妹子様は嬉しくないんですか?久しぶりに太子に会えるんしょ?」

倭国に帰るのがそんなに嬉しいのか、普段の三割増しの笑顔で妹子をはやし立てる
そういえば『この度が終わったら結婚するんです』と何度も言っていたなと思い出した

「……そうだね」

しかし妹子の心情では嬉しさよりも安堵が勝っていた
自分も、乗組員も、煬帝から受け取った重要書類も、太子が喜びそうな調度品も全て無事だ

だから思った

(あれは……夢だったのかな?)

妹子達を乗せた船が嵐に巻き込まれ難破寸前まで陥ったのは昨夜の事、乗組員達は妹子を含め全員海に投げ出された
荒れ狂う海の中で皆が『助けてくれ』『死にたくない』と叫び上げる。しかし自然の力に人間が抗えるはずもなく皆次々と波に攫われていく
そんな中で妹子は非力な木片に必死にしがみ付き海が静まるのを待っていた

すると目の前に見たこともない巨大な波が現れた

(嫌だ!まだ死にたくない!)

妹子は目を閉じ強く思った

しかし波は一向に襲って来ない、それどころか音も消えている
恐る恐る目を開くと妹子以外のモノはまるで時が止まったように動いていなかった

(え?)

海は荘厳な輝きに満ちた
そして妹子はその声を聞いた
否、それは妹子が認めている声というものでは無かった
誰かの思念が脳に直接入ってくるような感覚だ

『死にたくないのか?』

誰かが訊く、当たり前だ

『何故?』

何故?生きたいと思うのに理由など要るか

『……助かりたいか?』

そんなこと出来るのか!?

『出来る、但し条件がある』

助かるならば何でもしよう、妹子は心の中で叫んだ

『ならば私と契約を結べ』

「契約?」

『……世の……として……れ』


その後の記憶は曖昧でよく覚えていない
しかしそれは妹子の想像を絶するもので酷く驚かされたのを覚えている

それでも妹子はこう答えた

「構いません、何があろうと僕は、あの人の元へ戻らなくては」

その為ならばどんな苦業も堪えてみせると言った

『そうか……よし、ならばお前を助けよう』

最後に、あれの本当の声が耳に届いた

慈しむように、憐れむように、謝罪するように、悲しく切ない声が


「……魔を……む……――」


そこで妹子の意識は途絶え、今に到る
自分も、乗組員も、煬帝から受け取った重要書類も、太子が喜びそうな調度品も全て無事だ

だから、

嗚呼やはりあれは夢だ
あんな事が現実に起きる筈がない

「妹子様?どうされました?」

「いや、なんでもないよ。僕は部屋にいるから倭国に着いたら教えて」

「はい」

「頼んだよ」

あの出来事を夢だと確定した妹子は自分達を出迎える上司を不機嫌にさせない為、自室へ着替えに向かった



* * *



数十年後、妹子があの出来事が夢でなかったと悟ったのは天寿を全うした後だった



(此処は何処だ?)

人は死んだら閻魔に裁かれて天国か地獄に振り分けられるんじゃなかったのか

(僕はそこで何年かけてでもあの人を探し出すつもりだったのに)

妹子は自分の前に立つ女をジッと睨んだ
式服を身にまとった妙齢の美しい女性である

女は妹子に近づき優しく微笑む

「はじめまして、ようこそ冥界へ」

女はゆっくりと語りかけてきた


さっきから誰を探しているの?
貴方の探し人は此処にはいないよ
そんなこと、とっくに解ってる筈でしょ?
此処は他の世から切り離された場所
貴方は永遠の異邦人にして永久の滞在人
まぁ貴方はすぐに輪廻の輪に還されるでしょう
それでもそれは解放ではない


全て聞き終えた妹子はその女を睨みながらも訊ねた

「貴方は……何者ですか?」

「私は卑弥呼。貴方と同じ、憐れな神の落とし子だよ」

女……卑弥呼から微笑みが消え、今にも泣きそうな顔で妹子から目を逸らした

「アンタなんで……なんてことしてしまったの?」

卑弥呼は全身を使い悔しさを表す
握り込めた手からも、噛み締めた唇からも血が流れるのを見て妹子は慌てて止めた

「ちょ何やってんですか卑弥呼さん!!」

「アンタが馬鹿な事したから!!」

「なっ!初対面なのに失礼ですね!!ていうか馬鹿な事ってなんですか!?」

「大日如来様と契約したでしょ!?」


契約……?大日如来……?

まさかあれは夢ではなかったのか?


「どうして皆、閻魔を苦しめるような事ばっかするの?」

悲痛な声の中の聞き覚えのある名前に気付いた

「閻魔を?」

妹子は彼と生前から親交があり、仲良しと言われても嫌な気もしない存在だった
彼を苦しめるとはどういう意味だ?そう考え廻らせた時、背後にあった扉がきぃと音を立て開いた

「閻魔」

そこから現れた者の名前を呼んだ卑弥呼は遂に泣きだしてしまった
唖然として振り返ると閻魔は妹子のすぐ前まで駆け寄り

本当に申し訳なさそうに謝り、頭を深く下げた

「え?閻魔!?どうしたの!?」

「妹子ごめん……ごめんね……」

閻魔は妹子の服を握り締め謝罪を繰り返す、妹子は訳も分からず閻魔を窺う

「閻魔」

諫めるように呼べは、閻魔は俯いたまま、でもハッキリと解る声で言った

妹子にとって最も残酷な言葉を


「……ごめんオレの所為で……」

「……」

「妹子、君はもう小野妹子としては二度と太子に逢えない」


それを聞いた瞬間「ぱん」と音をたてて何かが弾けた

頭の中に流れ込んでくるのは嵐の中で聞いた言葉


『あの世とこの世の境界を守る番人として……冥界の王の僕となれ』


妹子はすべて思い出した


 お前はもう二度と普通の輪廻は望めない

 天国へも地獄へもいけず、ずっと冥府を彷徨うのだ

 そして地上からの補助が必要となれば強制的に転生される

 それでもいいか?

 それでも今助かりたいか?

 このまま死んでしまった方がマシだと後悔する時がいつか必ず訪れるぞ?



「……あぁぁぁぁああああああああああああ!!!」


妹子の悲鳴のような雄叫びが一面に轟いた


「妹子、ごめん!ごめんねぇ……!!」

「あぁぁ……あ、あ、あ……」


すべてを思い出した
あれは、大日如来といわれるあれは最後に


「閻魔を頼む……――」


妹子に向かいこう言っていた


(嗚呼、なんて軽率に応えてしまったんだろう)


妹子の叫びが止まった

それでも閻魔はひたすら謝り続ける

「え、んま……」

「ごめん、ごめん、ごめんなさい」

縋るように謝る閻魔は、しかし決して許しを請わない

憎くて憎くて堪らない、閻魔は何も悪くないというのに

その一方で諦めにも似た感情が生まれていた
ひょっとして大日如来という人から植え付けられた感情かもしれないが



――愛しい主よ……どうかそんな辛そうな顔しないで――



己に縋るちっぽけな閻魔をずっとずっと守っていかなければならない気になった






続く