自分の心を見ようとすればいつも春のように霧がかっていて、時に細雨が降っているようだった。 夢に見るのは決まって夜の情景だが、今宵は月も星も足元さえ見えなかった。 暗闇の中慎重に瞳を凝らす、息を殺し足音も立てず僅かに見える灯火を目指し歩む。 注がれたものを一滴も零さぬように、這い寄るようにその炎へ手を伸ばす。 この夢が醒めたらきっと僕はしとどに泣いているんだろう。 ゆうべお前が僕の中に出したものをどうしても掻き出せずにいた僕は、一億以上の年を重ねて尚弱いままだと知った。 儚く揺れる炎は惑う人の心に似ていて愛おしい。 なにも望んでくれないお前に、与えたいものを与えられない癖に……何故こんな夢を見てしまうのだ。 この炎に触れれば、もう後戻りは出来ない。 お前を想えばけして触れてはいけないものだと解っている。 けれど触れなければこの炎は消えてしまう。 なら触れないなんて無理だ。 ――これを消さない為なら自分はいくら傷付いたって穢れたって構わない、だってこの炎はあの鬼の―― そして白澤は炎に触れ、それを優しく抱き寄せた。 絶望の始まりに、もう大丈夫だと言い聞かせ…… * * * ズッズッと地面を何かが擦る音が響く。 鬼が金棒を引き摺りながら歩いているからだ。 四季を通して猛暑を記録する八大地獄の中でも一際熱を発する大熱処で鬼神は悠然と足を進めていた。 柱に括られる亡者達はその鬼を濁った瞳でじっと見つめている。 目は口ほどにモノを言う、そんな主張の強い眼差しを向けながら相手が無視できなければ嘲笑うんだろう、人という生き物は。 うるさい、黙れ、私を人でなしにしたのは誰だ。 そもそも鬼を「人でなし」と貶める愚かさにどうして気付かないのだろう。 人ではないものを人の感性で秤かることの傲慢さ、人以外のものへの無意識の見下し、阿呆の極みだ。 そのような罵倒は己にとっては侮蔑でも誉れでもない、ただの事実だ。 けして傷付くことではない。 「みなしごが……」 柱の路を抜けた所で耳に入ってきた言葉に、鬼灯は腕を振り上げた。 鈍い音の後、石で出来た床に亀裂が走るのを見て誰かが小さく悲鳴を上げる。 振り返れば幾つもの瞳が鬼灯を見ていた。 目は口ほどにモノを言う。 「人でなし」「鬼になど成り果てて」「何千年も前の事いつまで根に持っているの?」「非道い」「鬼め」「人である事を棄てたお前に人の心など解るものか」「お願い一目だけでも子どもに逢わせて」「あの時はああするしかなかったんだ、どうか許してくれ」「もう充分罪は償っただろう」「酷い」「家族の情を知らないからこんな酷いことが出来るんだ」「みなしごめ」 実際口に出して言われたわけではないのだから怒りを露わにするのは可笑しい、それにコレらは私に怨まれる事をしたが私はコレらに憎まれる事を返したのだから、多少の恨み言は覚悟していた。 こんなもの無視していればよい。 「目障りじゃの」 おもむろに背後から声を掛けられた。 鬼灯が大熱処の視察ついでに挨拶をしておこうと思っていた相手だ。 「この宮殿のでざいんは気に入っておるが時々こやつらが五月蝿くてかなわん」 「……では一新させますか?今度は池の中のオブジェにでも」 それなら唸り声も聞こえないと提案する、この眼差しも水面に歪んで見えなくなるだろう。 「それではおぬしの身の内にある火の気がすまんじゃろ、それにあの池は……」 「はい?」 イザナミの宮殿の庭にある池、この大熱処の暑さにも負けず潤っているアレになにか意味でもあるのだろうか、別に生き物がいるわけでも飲料に使っているわけでもないが何か問題があっただろうかと鬼灯は首を傾げる。 「いや、なんでもない……おぬしの身の内にある火は特別じゃからの、いっそのことソレで屠ってしまえば気が済むのではないか?」 彼女がそういうと柱にくくられた亡者達がまた小さく悲鳴を上げた。 鬼灯は怪訝な瞳でイザナミに問う、転生させるなら兎も角もう既に死んでいる亡者を殺す事は不可能な筈だ。 すると彼女は袖で口元を隠しつつ瞳をにんまりと笑ませながら答える。 ただの人の子だった丁が鬼火とまざり鬼となったように、鬼火とて丁とまざりただの鬼火ではなくなったのだ。 丁の怨みと鬼灯の陰の気が融け合い神をも苦しめる禍々しい劫火と化しているのだとイザナミは言った。 「私は罪人を楽にしてやる気も、それで自分が楽になる気もありませんよ」 「閻魔大王や友人や部下に座敷童子、おぬしを慕う者は地獄中にいるというのに、その怨みは晴れぬのだのぉ」 「それが私の本分ですから」 「よいよい、わらわも同じじゃ」 怨みは我らの本分であり、原動力。 毎々日々イザナミは現世の人間を殺す、イザナキ憎さに彼と共に育んだ彼の愛する地に棲む者を常世へ引きずり込む。 気が遠くなる程昔から続く彼との約束、彼の方も厭きずに守り続けているのだから、もはや絆と言えよう。 「こんなわらわ達を受け入れ重要な役職を与える黄泉の懐は寛いと思わぬか?」 「ええ」 彼女と自分を補佐官に選んだ閻魔大王も、実力主義と言ってしまえばそれまでだが、器の大きな人なのだろう。 そして彼女の言う黄泉には天国も含まれている、幼い頃は役立たずだと思っていた神々も同様に寛大なのだ。 「此処にいれば心が落ち着くのじゃ、柔らかい何かに包まれているような、まるで……」 揺籃のように、だろうか? 「墓場にいるように」 「は?」 「なんじゃ?鬼灯」 「いえ、揺籃ではないのですか?」 「……違うのぉ」 イザナミはくすりと笑んだ。 墓にも揺籃にも入った事のない鬼灯にはその違いが解らなくても仕方がないだろう。 「まぁよい、中に入れ……茶を飲むくらいの時間はあるだろう」 ここは暑くて喉が乾く。 耳障りな亡者の呻きが聞こえぬ場所でおぬしの話を聞かせておくれ、そうイザナミに誘われた。 「はい」 金棒を肩に掛け、彼女の後ろをついて行く、国産みの女神は鬼灯から見れば酷く華奢だ。 この細い体で彼女は独りこの広い宮殿に暮らす、勿論従者も共にだが対等に話せる相手は欲しいだろう。 穏やかで気負いせず聡明なイザナミを楽しませる程話題が豊富な者、そして時間を惜しまず彼女の話を聞いてやれる者、鬼灯の脳裏に最適な者が一人浮かんだが、即座に却下された。 あの男は人妻に手を出す輩ではないが、中華天国の神獣に日本の高位神と親しくされては色々と厄介なのだと自分のことを棚に上げて無理やり結論付ける。 だいたい常春の桃源郷に住まう極楽蜻蛉が地獄の暑さに耐えきれる筈がない、きっとすぐに音を上げて天国へ帰ってしまうのだと己に言い聞かせた。 本当はこう思っているのだ。 ――あの獣が地獄へ堕ちる理由が唯一私だけになればいい――と…… その夜、珍しく仕事が早く切り上がった鬼灯は閻魔と衆合地獄へ出掛けて行った。 亡者にとっては刑所でも獄卒や地獄の住民にとっては歓楽街だ。 遊郭もあればただの呑み屋もある、閻魔がお気に入りなのは大柄な自分がいても邪魔にならない隅の畳席。 店員が気を使って敷居をしてくれたけれど頭の半分ははみ出している。 「ねえ鬼灯君さーそろそろお嫁さん探し始める気ない?」 「何度言ったら解るんですか、私にその気はありません……あんまりしつこいとセクハラで訴えますよ」 「ワシ閻魔なのに!?」 驚く閻魔の顔を見ながら、この人が裁判に掛けられる時は誰が判決を言い渡すのだろうと考える。 十王は駄目だ、皆この人に甘いし鬼灯の結婚を望んでいる人たちだから等と鬼灯が考えていると閻魔大王がはあと溜息を吐いた。 「君には幸せになってもらいたいんだよ」 閻魔が持つと小さく見えるコップの波紋を見つめながら独り言のように呟かれる。 「充分幸せですよ、私は」 「それはそれでワシは嬉しいんだけどね」 この人の言わんとしていることは理解できる、この優しく父のような上司は鬼灯に血の繋がりを持ってもらいたいのだ。 人の頃から孤児で、鬼としての出生も特殊である為に同族と呼べるものがいない、彼が孤独を感じていないか閻魔はそれが不安だった。 (大きなお世話なんですけどね) だいたい鬼には血の池から生まれたり怨念から生まれたりで最初から家族のいない者なんて沢山いるじゃないか、そう思いながら盃の酒を一気に煽る、喉が焼ける程のアルコールでも酔いが回ることはないだろう。 「私は独りではありませんが」 地獄において絶対的な地位を確立し、仕事でも私生活でも仲間と呼べる相手が複数人いる現状を彼は孤独とは呼ばない。 己を飾らずとも多くの者に慕われ愛されていることもソレを己の力で勝ち得たことも確かに恵まれていると感じていた、ただ一つ未だ手に入らぬものはあるけれど。 「同族がいなくてもいいじゃないですか、唯一無二の存在なんてなろうと思ってなれるもんじゃないでしょう」 「んーでもねぇ子どもは可愛いもんだよ」 「……望む相手の子だからでしょう」 「鬼灯君……」 閻魔の瞳が少し痛ましげに揺れた。 鬼灯を親の様に見てきた彼は気付いているのだろう、鬼灯のけして叶わぬ恋とその相手の事を、だからこそ結婚に目を向けてほしいと願っている。 「自分の子ならば可愛いと感じるかもしれません、ただ愛おしいと感じるのはきっと愛する人との間に出来た子だけです」 あの神獣の子でなければ意味がない、だから我が子などいらないし、けして作らないようにしてきた。 (この間は危なかった……以後気を付けるとしましょう) 鬼灯は先日己の子種を渇望し媚薬を盛ってきた鬼女を思い出し苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。 長い付き合いだからと油断して、薬の所為で記憶はないけれど避妊もせずに手酷く抱いてしまったのだと思う、恐らく。 けれどあの鬼女はもうすぐ転生すると言っていたから妊娠はしていないし、たとえしていても彼女と共に消えてしまっただろう。 (私の子が……消えたかもしれないのか……) どうしてだろう、我が子など要らないと思っていたのに、そう思うと焦燥感が胸に落ちる。 「鬼灯君大丈夫?ごめんねこんな話しちゃって」 黙り込んだ鬼灯を心配し、自分の所為かと閻魔が謝ってきた。 「もうしないから、今夜はワシの奢りだからぱーっと飲み明かそうよ」 ニコニコと優しい笑みを浮かべる閻魔を見て少し気持ちが落ち着いた鬼灯は、他の者では解らないような笑みで彼を見上げた。 閻魔が安心した、その時だった。 「最近ほんと白澤様来てくれなくなったのよね」 「あら?貴方の店も?うちもよ」 少し離れた所にいた女性グループの声が聞こえてきた。 「鬼灯君、お店変えようか?」 「いえ、お気遣いなく」 好きな相手のことを話す女性の話など聞きたくないだろうと閻魔が気を使い提案するが、鬼灯は断る、衆合地獄にいれば彼の噂などどこにいても入ってくるだろう。 それに今回は妓楼に行かなくなったという話題なので、そう悪いことでもないと思い聞き耳を立ててみた。 「前々からお酒と食事を召し上がるだけで同衾されることはないお方だったけど、それを含めて上客だったのに」 「あら?貴方の店でもそうなの?」 「そうよ、他の店でもそうなんじゃないかしら、既に心に決めた方のいる遊女ばかりを贔屓にし、その子の恋話を肴にお酒を飲まれる」 「たまに寂しくて夜伽を強請る子もいるけれどそういう時は「愛する男と会えない寂しさを他の男で埋めても虚しいだけだよ」って諭すのよね」 「その子達が身請けられていく時には人一倍喜んで祝福を渡す」 「本当に優しい方よね、もう枯れてしまわれただけかもしれないけれど」 「いいえ、白澤様の家に行った子の話によると触ったらきちんと反応されたそうよ、その子も抱いては貰えなかったけど」 「まあ酷い、それならなんで家に呼んだのかしら?」 「ほらあの方って術を扱うセンスがないじゃない、だから術の得意な子を呼んで色々と指南してもらっているそうよ、その子は分身の術が得意で一晩中コツを教えてたとか」 「そうなの……でも勘違いしちゃう子も多そうね……頬の紅葉の原因はそれなのかしら」 「ええ、それでもわざわざ可愛い女の子に教えてもらうところが白澤様らしいけれど」 「男性と二人きりになる方が危険じゃないの?白澤様の場合」 「あははっ言えてるわね!」 と、花街の女性とは思えない溌剌な笑い声を上げるが、聞いてる方は笑えない。 なんだ今の話は真実なのか?だとしたら淫獣と罵ってきたのはとてつもなく的違いだったのではないか、あと男性と二人きりになる方が危険ってどういう意味だコラ。 「私思うのだけど、白澤様ってずっと心に想う相手がいたんじゃないかしら」 「ああ私も同感だわ、だから寂しいからと愛する人以外と寝る事を「虚しいだけ」だと言ったのよ」 「だから最近お店に来られないのはひょっとして……」 「そのお相手と?」 「かもしれないわね、ふふっ」 それを聞いた瞬間、鬼灯は勢いよく立ち上がった。 その音に驚いて近くにいた客は皆彼に注目する。 「ど、どうしたの?」 向かい側に座る閻魔からは俯く彼の表情は見えなかった。 「申し訳ありません、急ぎの仕事を思い出したので今日は帰ります」 「ちょ!?待ってよ鬼灯君!!」 返事も聞かずに立ち去る部下の背を追って閻魔も経つが会計を済ませているうちにまかれてしまうだろう。 二人が出て行き、またざわつき始めた店の中で女性客は顔を見合わせて笑う。 「これからどうするのかしら鬼灯様」 「ねぇ?」 わざと彼に聞こえるように噂を流すのは少し意地悪に思うけれど、仕方ない。 ――だってじれったいんだもの―― そう言う二人は男を弄ぶ衆合地獄の妖の顔だった。 そして優しい友人の恋を応援する女の顔でもあった。 * * * 桃源郷に構えた神獣白澤の薬局【極楽満月】はその名のとおり今宵も満月に照らされていた。 店をしまえて従業員が帰った後は、淡く光る白い壁の向こうにあるのは二人分の気配だけ。 「白澤様、そろそろ休まれてはどうですか?」 調合する部屋の中、そう言う桃太郎は既に使い終わった薬研や乳鉢等を抱え水道へ向かっていた。 「ああもう、今日は帳簿をつけるだけだから」 「それくらいオレがやりますよ、というか最近根を詰めすぎじゃないですか?」 「うーん……でもね、少しでも多くストック作っとかないと今年も鬼インフルエンザ流行るだろうし」 洗い物を始めた桃太郎とお互い背中越しに会話をするが、二人とも相手が今苦笑いをしていることは解っていた。 「すみません、俺まだ作れる薬が少ないから」 「桃タロー君は悪くないよ、繁忙期に勝手に留守する僕の責任だ」 最近真面目に仕事に取り組んでいる白澤には桃太郎も甘い、彼が花街に行かなくなったのは薬作りの為だ。 大切な用事で数カ月天界へ行かなければならないからそれまでに桃太郎では作れない薬を出来るだけ作っておく……といっても日持ちする種類の薬しか作れないし、その時の客に合わせて作る処方薬も作れないから、この店にとっては大打撃である。 人間の弟子のいない頃は趣味道楽でやっている店だからと気にならなかったが、桃太郎を養わねばいかない今は少しだけ利益のことも考えてるのだ。 女性に貢がなければ養老の滝のレンタル料で充分足りると白澤が気付くのは一年以上先の事だが今の彼にはそのような生活考えられなかった。 (帰って来た僕が赤ちゃん連れてたら桃タロー君も怒るよね……) ただ彼なら我が子の出産は“大事な用事”に含まれると思って大目に見てくれる。 問題はあの鬼だ。 鬼灯は未婚の父となる白澤をどう思うだろうか、みなしごだと謂われない中傷に晒されてきた彼は我が子を片親の子にしてしまった白澤をどう見るだろうか、嫌悪され軽蔑され、今度こそ修復不可能なまでに信用を失う。 「大丈夫ですか?顔真っ青ですけど……」 洗い物を終えた桃太郎が白澤の隣に来て心配そうに問い掛けた。 「あ……えっと」 違う、体調が悪いわけではないと言いたいがどう説明していいか解らなかった。 「無理しないでください、ほら白髪が出来てるじゃないですか」 そう言いながら桃太郎はキラリと一筋光る髪に触れた。 「ああっ此処では抜かないで!一応調合室だから」 「え?あ、そっかすみません……」 たしかに埃などが薬に混合しないように清潔が保たれている部屋で毛を抜いてはいけないと、すぐに手を引っ込める。 「いいよ、自分の部屋で見てみる……じゃあ後は頼めるかな」 「はい!任せてください」 ほんの少し罪悪感を抱きながら頼もしい弟子に片付けなどを頼むと白澤は自分の部屋に戻った。 「ああ……やっぱり」 鏡を見ると、前髪の一房が白く色褪せていた。 きっと先程桃太郎に指摘された時よりも多くなっている。 だが三角巾で髪を隠し鬘をつければ誤魔化せる範囲のものだ。 (僕の本体はどんな状態なんだろう) 術のセンスのない白澤だが、この分身の術は色んな娘にコツを聞いて完璧に手中におさめたと思っていた。 それが不安定になるということは本体の体力がかなり消耗されている証拠だ。 白澤の胸に不安が過ぎる。 (早く、此処を出なきゃ) 誰かに気付かれる前に、自分が動けるうちに本体へ戻って少しでも体力を取り戻させなければ、あの身体には…… あの胎には…… 「大丈夫……きっと無事生まれる」 白澤は己の腹部を撫でながらスーッと深呼吸をして気を落ち着かせた。 安心しろ、大丈夫だ、だって…… 「鬼灯の子、だから……」 数百年ぶりに声に出す鬼の名は、かくも愛しきものとして神の内に響いた。 つづく‥‥ |