天国で病が流行る事は滅多にない、気候の良さと食べ物の良さとストレスの無さがそうさせるのか、天国の住民は心身ともに健やかだ。
ただ長生きな分免疫力がないのが難点で、極楽満月でも疲労回復のサプリメントや薬膳などは時たま売れてゆく。

一方地獄は伝染病が多い、いくら丈夫な鬼とは言え毒血腐肉糞尿屍骸魑魅魍魎の溢れかえった所にいては病に侵されるだろう、その中でも獄卒なんかは閻魔大王の第一補佐官を筆頭に過酷な労働に殉じている分、感染する確率も高かった。

そんな地獄で病が流行る時期に検疫や地獄の門の閉鎖を導入しようかと天国側が検討しているそうで、白澤はそれまでに地獄で二号店を出店すべきかと悩んでいたりする。

「でも、そうなると桃タロー君に今みたいには教えてあげられなくなるんだよね」
「それは困ります、まだ俺じゃ作れない薬いっぱいあるんで」
「だよねぇ……地獄の方が環境改善して伝染病を減らせばいいんだけど」
「環境のいい地獄って地獄じゃないような」
「そうなんだよ」

地獄は悪人が罪を償うところだから、けして棲み良くはならないのだけど、その所為で悪人ではない者までとばっちりを受けるのはどうだろうと思う。

「だからといって地獄に店を移すわけにもいかないんだよね、一応ここの管理任されてるし、地獄では漢方の原料になる植物が育たないし」
「じゃあやっぱり感染を水際で防ぐしかないんですね」

地獄と天国の往来が不自由になったら困るから、そう言って白澤が地獄旅行者の予防接種用ワクチンを大量に作製しだしてから一月。
その間、店を半休にしているが地獄の繁忙期も終え客足もそれほど多くないので特に問題はなかったが、師弟のフラストレーションは溜まり気味だった。

「ああもう、女の子と遊びたい、お酒いっぱい飲みたい」
「俺だってそろそろぐっすり寝てちゃんとした料理を食べたいですよ……もうちょっとです、がんばりましょう?」
「……うん」

クマの出来た目を擦って頷いた白澤は、梱包作業に戻った。
普段清潔な天国に住んでいる者が地獄で病に感染される事が多いのは道理だし、だから地獄で伝染病が流行る時期に門が閉鎖されるのも理屈では解る。
しかしそれを聞いて白澤が言った言葉は「なんで病気が流行ってる場所に薬剤師が行くのも規制されなきゃならないの?」だった。
いつも地獄でなんとかインフルエンザだの、なんとか風邪だの、なんとか菌だの、なんとか熱だのが流行ると白澤が駆り出され桃太郎も目まぐるしく働かされていた。
漢方医ではあるが本業は薬剤師の二人が医療行為に携わらなければならない、それくらい患者に対し医者が不足しているのだ。
それを解っているから白澤は天国側の役人に自分が旅行者全員分のワクチンを作るから閉鎖は止めてくれと懇願した。
仁道的な言葉に心を打たれた役人は、それでは一ヶ月以内に五十箱分のワクチンを作れと無茶ぶりをしてきたそうだ(本当に心を打たれているのか不明だ、天国の住民のくせに)

「あと一箱だよ桃タロー君!」
「はい!!」

最後の木箱に二人でワクチンを詰めてゆく、この作業くらい誰かに手伝ってもらえばいいのにと何度思ったか、そもそもワクチン作りって漢方屋の仕事なのかという疑問も何度浮かんだことか、でも、もういい、これで終わるんだから。

「よし、できた!じゃあ僕これ届けて来るよ!」

箱の蓋を釘で打ち付け終わった瞬間、はじけんばかりの笑顔を見せたかと思うと白澤は言った。
早く地獄に行きたいのは解かるけれど、仕事終了の余韻に浸る暇もなく出掛けようとする彼をやんわり止めて桃太郎は微苦笑を零す。
そんな疲れた風貌では恋人に心配を掛けるだけだろう、この仕事の事は鬼灯には内緒にしてたいと言っていたから(いずれはバレると思うが)いつも通り明るい師匠に戻って貰わなければと桃太郎は思った。

「その前に少し休憩しませんか? そんなんじゃ仕事してましたってバレちゃいますよ?」
「……そうだね」

仕事のし過ぎで叱られるなんて普段と逆だから、お互いの気持ちを理解する為に一度経験してみればいいのになー……なんて内心で呟いて、桃太郎は木箱に背中を預けた。
白澤も同じように木箱に寄り掛かり伸びをすると、はあああと大きな息が漏れてしまった。

「桃タロー君よく頑張ったねぇ、お陰で期限内に納まったよ」
「地獄からの注文が少ない時期で良かったですね」
「来年はもう少し効率をよくなるよね、可愛い女の子バイトに雇って心身ともに楽しよう」

来年のことを言うと鬼が笑うというけれど、ここにいれば一年なんてあっという間だ。

「女の子のバイトはトラブルの原因になるから雇わないんじゃないでしたっけ」
「だからって男の子雇ってもアイツが不機嫌になるんだもん」

まあ、白澤が男から慕われる光景なんてみたくはないという気持ちも解かるが、少し狭小過ぎやしないか? 桃太郎が来るまでこの店を一人で切り盛りしてきたのはいくら神獣でも大変だったろう。
漢方薬の権威である白澤に憧れる若い漢方医は多い、研究者として雇いたい企業や大学も沢山ある、そんな中成り行きで弟子入りできた自分はラッキーだけれど、本当はもっと多くの人にこの人の知識が広がれば良いと桃太郎は思っていた。

(この人の店を日本地獄が独り占めなんて、みんな怒るだろうな)

日本の衆合地獄がお気に入りといっても女の子はみんな可愛いという白澤なら他の国の繁華街でも充分楽しめるだろう、桃源郷の管理は放蕩していた頃だって出来ていたのだから少し離れても大丈夫なのに、白澤は何千年と此処に居て、環境が悪いのも解かっていながら(環境が悪いからこそ)地獄へ移ろうかなんて本気で考えている。
それが誰の為なのか、好い加減自覚してしまえばいいのに――

「白澤様、最近あれ出しませんよね」
「あれ?」
「猫好好ちゃん、前は三日に一度っていうか消える度に出してたじゃないですか」
「ああ最近そんな暇なくて……」

夢に出てきそうな不気味な猫だけど、あれを書くと白澤のストレスが解消されることを思い出した桃太郎は疲れている今なら許せると口に出した。

「もう少し部屋が片付いたらね」
「あーー……」

確かにワクチン作りの残骸でいっぱいの部屋に、あの動きが不安定な猫を出すのは危険かもしれない。

「そういえば前から思ってたんですけど、白澤様のその術って字は実体化できないんですか?」
「へ?」
「三日で消えちゃうものなら、ちょっとした伝言とかに使うと便利だなって」

たとえば「豆腐買ってきて」とか「この日がセールだよ」とか、メモ紙の節約になるし、付き纏ってくるなら忘れないし。
なんて、所帯じみたことを言ってくる桃太郎に白澤は笑った。

「いいね、やったことないけど面白そう……試してみようか」

と、言って床に落ちている紙と筆を拾い上げて、サラサラと文字を書き出した。
この師匠、字は達筆なのにどうして絵は壊滅的なんだろうと桃太郎は不思議でならない。

「できたー!」
「お、おう……」

紙をふーっと吹いて出て来た言葉は二人の目の前で浮いている。

“鬼灯なんて大ッ嫌い!!”

言うに事欠いてそれか、とツッコミたい。
いくら忙しくて心が荒んでたからって……字が上手い分、残念な感じが倍増している。

「ねえ、白澤様……もうすこし瑞兆らしいこと書かないですか?」
「へ?」

自分の作品を満足げに見上げている白澤がひどく無邪気に見えるのは母性が働いているからか、この「もう仕方ない子だなあ」という感覚はなんなのだろう。

「もっと……そうですね“愛”とか“幸福”とか、良い意味の言葉を書いてみてくださいよ」

初っ端が鬼灯関連だったのは彼らしいけれど、やはり神様が大嫌いなんてマイナスなことを書くのは縁起が悪い気がする。

「わかった“愛”と“幸福”ねー」

本当に解ってるんだろうかと桃太郎が見守る中、白澤はやはりサラサラと綺麗な字を書いたあと、それを実体化させる。
宙に浮いた“愛”と“幸福”の字、なかなか良いので今度は漢詩でも書いてもらおうかな……なんて思っていると、その文字達がスルリと窓の隙間を抜けて外に出て行ってしまった。

「あ!」

そのまま、文字が飛んで行った空の彼方を師弟は呆然と見上げる。

「飛んでっちゃいましたね……白澤様の“愛”と“幸福”」
「ちょ!かなしいこと言うのやめて!!」
「やっぱり軽いからでしょうか……」
「失礼なぁ!」

そう、きゃんきゃんと吠えていた白澤だが、すぐに「まいっか」と気持ちを切り替えた。
どうせ三日過ぎれば消えるし、悪い意味の言葉ではないし、戻ってくるかもしれないし、白澤が書いたものだと解からないだろうし、誰かに見られても構わないだろう。
飛んで行ったものは仕方ないのだ。

「よし、お茶飲んでちょっと片付けて配達行くかー」
「そうですね」

足に反動をつけて立ち上がる白澤と、その白澤から差し出された手を掴んで立ち上がる桃太郎。

「……ところで、この“鬼灯なんて大っ嫌い!!”ずっと此処に浮かんでんですか?」
「まあいいじゃん、アイツが今度来る日までには消えてるし」
「なんか気が滅入るんですが……」
「なんで桃タロー君の気が滅入るのさ、あの鬼のこと言ってるのに」
「だって」

こんなもの飾っていても額面通りに受け取るのは白澤をよく知らない者か鬼灯本人くらいだろう、桃太郎には盛大な惚気に見える。

「ま、いいでしょう邪魔にはなりませんから」

猫好好ちゃんと違って……とは、流石に言えなかった。

「じゃあお茶淹れてくるね」
「あ!いいですよ俺がしま――」

――バァン!!
と、師弟の会話を遮って大きな音を立てた引き戸が内側に倒れてきた。
店が少し傾いた気がしたが幸いワクチンの入った木箱は無事だ。

「ごめんください!!死ね白豚ぁあ!!」
「うああああ!!なにすんだよ!!今店で暴れんな!外でなら相手してやる!!」

鬼神の奇襲からワ、クチンを作っていた跡やら、ワクチンの入った箱やらを守るのに必死だ。
外で相手をするは難しい調合をしている時の常套句だから特に怪しまれないと思って言ったのだが……

「その前に私に掛けた呪いを解け!!」
「……」
「……」

白澤と桃太郎は鬼灯の顔を見て固まった。
その両頬にくっきりと書かれているのだ……先程飛んでいった“愛”と“幸福”の文字が。

「衆合地獄の視察中に突然張り付いてきたんですよ、剥ごうとしても剥げないし、私にこんな嫌がらせしてくんの貴方くらいでしょ」
「しゅ、しゅうごうじごく!?」

ということは仲の良い遊女たちにも見られたのかもしれない、自分の字で書かれた“愛”と“幸福”を、しかも良い意味の言葉なのに鬼灯からは呪いと言われたショックでダブルショックだ。

「この術は書かれた言葉を想う対象に張り付くって性質なんですね、大嫌いは本心ではないから残ったと」

そして冷静に分析する桃太郎の小声を聞いてダブルで恥ずかしい。

「ん?なんて書かれてるんですか?」
「へ?え?」

どうやら、鬼灯は自分の顔に張り付いた文字をまだ見ていないようだ。
しかし消えるまで三日あるので、遅かれ早かれ気付くに違いない、周りの者にも見られると思うと白澤は本気で恥ずかしくて堪らなかった。
というか、これは業務に支障をきたすだろう、顔に愛と幸福を張り付けた鬼なんて威厳とか恐怖とか何も感じないから。

「ご、ごめん……三日間はお面でもつけてて」

頭を抱えて謝る白澤を見て、これは故意に掛けられた呪いではないのだと鬼灯は理解した。
むしろ恋に掛けられた祝いの方だ。

「なんなんですか?本当」
「ちょっと待って、もしかして違うかもしれないから色々試してみる」

そう言って白澤は紙に色んな言葉を書いては実体化させ始めた。
すると「恋人」「愛人」「尊敬」「男前」など愛の言葉は鬼灯の服に張り付いていていく。
逆に「ろくでなし」「バカ」「死ね」など悪口は宙に浮かんでいくので桃太郎は「吉兆の神獣の店に気の滅入るオブジェがどんどん増えてゆく」と遠い目になってきた。
そして「かわいい」「守ってあげたい」「お母さん」など女の子に言うような言葉が自分に張り付いてゆくのに絶望した。

「もう止めましょうよ、これ墓穴掘ってるだけですよ……白澤様」
「うう」

照れながら落ち込むという器用な芸当を見せる白澤に鬼灯は面白くなってきた。
服に張り付いた字を見る限り顔に張り付いているものも悪い意味ではないだろう、迷惑なのはかわりないけれど、それが彼のデレだと思えば嬉しい。

「……たしか貴方の部屋に姿見ありましたよね」
「見るな、頼むから見るな」

恥ずかしさのあまり膝をついて桃太郎の背中に張り付くのは腹立たしいけれど、彼の服に張り付いた言葉通り「お母さん」だと思っているなら許せる。

「ところで桃太郎さん……これなんの薬を作っていたんですか?」
「……はッ!!」

店を見渡した鬼灯にそう問われ、そういえばまだ片付いていなかったのだと気付く。

「えっと……」
「あ、あのな!えっと」
「下手に誤魔化そうとせず正直に答えなさい」

鬼灯の表情を見て、これは素直に言わなければ地獄の責苦を味わいそうだと感じた桃太郎は渋々と口を開いた。

「ああああ……もうやだ」

絶望に打ちひしがれている白澤の腕を逃げ出さないように握る鬼灯を見て桃太郎は自分に言って聞かせる、大丈夫、今回の師匠は特になにも怒られるようなことはしていないと。
浮気もしていないし、ここ一ヶ月真面目に仕事していたし(しかも鬼灯の為に)ちょっと迷惑は掛けているけれど恐らく鬼灯の許容範囲内だから店が破壊される要素はどこにもない。

「実はですね……」

この後、自分の話を聞いているうちに鬼灯の無表情の中で目の色だけが徐々に変化していくのが少しだけ面白いと、桃太郎は思ったのだった。

そして三人とも仕事を三日休んで極楽満月に引き籠っていたそうな。


END