企画に参加させていただきました


遠い昔にあけた窓、帳の薄羅紗が風に揺れて垣間に見える光りが白く、寝物語に月の兎の話を聞いたあの夜がよみがえる。
腹を空かせた老人へ、猿のように木の実が採れず、狐のように魚も捕れず、なにもないからと其の身を与えた献身的な兎の話だ。

(コイツなら要らないって突っ返しそうだよなぁ)

窓辺から大皿料理を黙々と平らげていく鬼へ視線を映した白澤は、この鬼は兎一羽じゃ腹の足しにもならないだろうしと心の中で付け加えた。
長期の現世視察へ向かうという彼に無理を言って夕食と月見に誘ったのは白澤だ。
もっとも無理を言ったと思っているのは白澤だけで鬼灯も望んでいたことだった。

「そういえば以前から気になっていたんですが」

デザートの前にテーブルの上を少し片付けようと鬼灯が食器を洗い、白澤がお茶の準備をしている時、鬼灯がふと思い出したように白澤に訊ねてきた。
ちなみに桃太郎は気を利かせて外出している。

「ん?」
「窓際に置いてある、あれはなんですか?」

タオルで拭き終えた乾いた指で差す先には動物の角に革紐と金具が付けられた首飾り、白澤の部屋に来るとだいたい其処か寝室に置いてあるものだ。
鬼灯の部屋で脱ぐ時など他の服は乱暴に脱ぎ捨てるのに、それだけは丁寧に置かれる、確認したことはないが部屋から出る時は常に首に下げているのかもしれない。

「これ?角笛だけど」
「それは見れば解りますが」

角笛とは、その名の通り動物の角で作った笛のことだ。
牧草地に住む人が持っていたのを昔よく見たけれど、羊や山羊のものとは違うように思う。
白澤が身に着けているといえば耳飾りもそうだが、普段は誰にも見せないならば装飾品というより御守りに近いのだろうか。

「それね、僕の角なんだよ」

密やかな声が鬼灯の耳だけにポツリと落ちてきた。

「……貴方の角まだあったんですか?」

既に六本あるというのに、という顔をする鬼に笑って答える。

「違う違う、これはもともと頭にあった角で、身体が成長した時に生え替わったんだ」

子どもの頃に生えていたものだから今より小さい、大人になった証だとして記念に角笛にしたのだと白澤は話した。

「二本作ったから、もう一つある筈なんだけど何処かに行っちゃった」

ずっと身に着けていたのに、どこにあるんだろう……と、若干トーンを落として言う白澤に鬼灯は意外そうな顔をする、彼は物を大切にはするが執着はしないと思っていたからだ。

「大切なモノなんですか?」
「んーだって僕が生まれた時から持っていたものって、これくらいしかないんだよね」

窓際に置いた角笛を見詰ながらぽつりと呟く、鬼灯は関心深げに耳を傾けた。

「別に御利益があるとか持っていたら身を守ってくれるとかいう作用はないんだけどさ、ただずっと身に着けてたってだけなんだけど」

生まれた時から体の一部だった、抜け落ちてからも持ち続けたそれは自分の全て知っているような気がしていたと言う。
嬉しい時も悲しい時も楽しい時も悲しい時もずっと一緒にいた――白澤の過去そのもののような――だから

「これは僕の半身みたいなものなのかな」

鬼灯の蛇のような目が開かれた瞬間、薬缶がぽこぽこと音を鳴らして湯の沸騰を報せた。

「……白た」
「あ、お茶もう直ぐ淹れられるから、チーズケーキそろそろ冷蔵庫から出しといて」

甘いものが好きな鬼灯とそこまで好きではない白澤が折衷案で作ったデザートは中国茶とも意外に合うものだ。

「ん?今なんか言いかけた?」
「いいえ……そうだ今夜は泊まっていきますから」
「……いいけど、明日早いんでしょ?」

そう言って茶葉の入った缶へ目線を落とす彼の言外には“一緒の寝台で眠られたら自分はきっと我慢できない”と含まれている。

「大丈夫です……というかナニもせずに長期視察など行ってしまえば貴方がまた浮気するのでは、と思うので」
「またって!正式に付き合い始めてからは一度もないだろ!!」

茶器を温めながら頬を膨らませてしまう恋人に「どうだか」と思いながら鬼灯は冷蔵庫から取り出したチーズケーキを切り分ける、白澤用に一切れ皿に乗せて、残りは全て自分のもの。

「冗談ですよ、信用出来ない相手と肌を合わせる程、迂闊ではないので」
「……そうかよ」

そう言いながら乱暴に茶葉を放り込むのを見て、ああ照れているのかと思ったが、指摘すればまた不毛な言い争いが始まるので黙っていた。
テーブルに二人分のケーキを置いてお茶を淹れる白澤の後ろ姿を観察する、今でこそこれより近い距離にいられるが、ほんの数年前までは会えば喧嘩の日々だった。

「貴方は違うのですか?」

訊ねられると白澤は一瞬肩をビクリと震わせて「僕は別に……」としどろもどろに言いはじめた。
よく考えてみると長年一夜の恋が主流だったこの神獣が恋愛と信頼をイコールで結んでいるわけがない、鬼灯は少し虚しく感じたが後ろから見えるその耳が赤いのでそれだけで満足することにした。

(最初は体だけでいいとか言ってきやがったからな)

鬼灯は一切れだけ欠けたホールケーキを見ながら、数百年前の情景を思いおこす。
忘れてはならないことだと解かっているが、あの時期のことを思い出すと陰鬱な気分になってくる。
理由は複雑すぎて説明するのが難しいが、地獄で内乱が起きたのだ。

白澤と歪な関係が始まったのもあの頃だ。
亡者や鬼妖怪が暴れる危険な地区へ出向くことが多かった鬼灯は少し気が病んでいたのだ。
そんな自分に抱いてくれと言ってきた白澤もどうかしていたが、それに乗っかった自分もどうかしていた。
地獄に漂う負の気の影響で神々の情緒が不安定だった時期だから白澤が可笑しかった原因もそう思っていたけれど、本当は鬼灯の消失を怖れていたのだと交際し始めてから告げられた。
いつ死んでしまうかわからない、明日失うかもわからない命だから後悔せぬように感じていたいと聞いた時は反射的に抱きしめてしまったけど、もう少し話をきちんと聞いていればよかった。

「出来たよ、ほら」
「どうも、いただきます」

目の前にとんと置かれた茶の色は薄い……満月のような。
一口飲むと舌に甘くて、辛口の酒を好む喉には呆気なく感じられた。
酸味ある濃厚なチーズケーキには合うものだろうけど、これでは酒が恋しくなるだろう。

「寝酒もちゃんと用意してるからね」

そんな鬼灯の気持ちを読んだのか白澤が笑いながら語りかける。

「私、明日早いんですけど」
「笊のくせになに言ってんだよ」

なお笑い続ける口は三日月のようだ。
この後、入浴し寝室で月を見ながら酒を飲む、そこにもきっと神獣はこの角笛を連れてゆく。

(己の半身ねぇ)

鬼灯はケーキを咀嚼しながらその額にある一本角を意識してみた。
これは死んだ時からずっと持っている鬼の証だ……だから自分もそう思えるかもしれない。

「今更ですが十五夜にチーズケーキですか?」
「いいじゃん、色と形が月みたいだろ」
「確かに」

そんなことを意識する暇もなく切り分けてしまったことが少し惜しくなったが、恋人と一緒に満月を食べるなんて洒落ている……今は欠けてしまっていても後で二人は合わさるのだし。

「ん?なんかエロいこと考えてるだろ……ムッツリ鬼」
「私にそんなこと言うのは貴方だけですよ、エロ神獣」


――貴方が期待してるからその様に見えるんです
――期待している貴方を見ると私も期待してしまうんです

と、白澤と一つになることを夢想していた鬼灯はそれを彼の所為にした。


「あっそう」

それっきり白澤は黙り込んで、しかし口元だけは笑みを浮かべていた。
ケーキを全て腹に収めた二人は、それをシンクに置きっぱなしにして浴室へと向かう。



こうして十五夜の夜は更ていった。




* * *




ところで日本では十五夜を見て十三夜を見ないことを“片月見”と言って縁起が悪いものとされている。
視察先の現世で鬼灯はそれを思い出した……というか視察先の会社でその話題が出たのだ。

「十五夜と同じ場所で十三夜を見ないと悪いことが起きるんだそうですよ」

アパートの窓辺で独り酒を飲みながら一人ごちる、誰も見ていないのでホモサピエンス擬態薬は飲んでいない。
長引くと思っていた視察が早めに終わり明日には帰還してよいと連絡が入ってきた。
あの神獣は自分が視察から帰る日を見計らって地獄へ配達に来るから毎回短く切りそろえた髪を笑われて喧嘩に突入するのだが、今回はサプライズで突然帰ってやってもいい。
皆が口を揃えて教えてくる“鬼灯様がいない間の白澤様”というものを観察してみるのも面白そうだ。

(でも、それより)

鬼灯は目の前に、彼の家にあったものと同じ角笛を翳した。
今の角より一回り小さいのは子どもの頃に生えていた角だから、鬼灯はその頃の白澤を見る事は出来ないが想像することは出来る。
きっと退屈で淋しかっただろう……この角はその全てを知っている。



――お前が持ってろ



あの夜、もう一つの角笛を寄越してきた白澤は何を考えていたのか、本人も忘れているようじゃ知る事は出来ない。
ただ……鬼灯はあのまま二度と白澤に会えなくなっていたかもしれなかったのだ。


――生きて帰ってこいとは言わない

――ただ、死ぬ時にそれを一緒に持っていろ


それを聞いてコレは来世へ吉兆を授ける獣らしい餞別だと思っていたら……それ以上だった。


「私の半身と共に死ね……なんて、口説き文句にしては解り難すぎじゃないですか?」


鬼灯は初めてそれに口を付け吹いてみた。
人間には聞こえない音だと解かり、窓を開け思いきり吹いてみる。
天まで届けとばかりに渾身の力を込めて、夜空へと響かせる。

犬が吠え、猫が鳴き、鳥が羽ばたく。
雲が晴れ十三夜の月が顔を露わにする、私の君はそこにいる。

私はお前と違い優しいから、こういう事も解かり易く言ってやろう。
天を凌ぐ程の想いを籠めた直球の口説き文句はきっと彼に届く。
やがてその音を聞きつけた、ひどく焦った様子の神獣が飛んでくるに違いない。



「――鬼灯!!」



ほら、思った通りだ。
真っ赤な顔を月に照らされた白澤が、彼の窓辺へ降り立った。

「五月蝿いですね、近所迷惑でしょ」
「五月蝿いなんてお前に言われたくない!!その笛の音が天国中に響いて迷惑なんだよ!!」


その音の意味が解るのは持ち主だった自分だけだけど……と付け加えた後、彼は鬼灯に詰め寄った。


「なんでお前がその角持ってんだよ!!どういうことか説明しろ!!」
「それより早く桃源郷に帰りますよ……でないと片月見になってしまいます」
「はぁ!?」

そうして白澤をタクシー代わりに使った鬼灯はその日のうちに十三夜の月見をすることが出来たという。
神獣が数百年前のことを思い出すのは鬼神の腕の中で彼の話を聞き終えた後だった。










END