始めに一本の電話があった。 店仕舞いをした後で、注文していた薬を今夜取りに来るという連絡だ。 「明日朝一で届けるんじゃダメか?」 緊急を要するのだったら今すぐ届けてやってもいいけど、と言えば、自分が寝付けないから不眠症の薬が欲しいと、注文していた薬はそのついでだと言った。 心配になった白澤はそれなら尚更今届けると言ったが、もう外は暗い、それに桃源郷の空気を吸えば気持ちが落ち着くから自分が向かいたいと電話の向こうにいる鬼が断ってきた。 珍しく二人とも素直な夜だった。 「じゃあ待ってる、裏庭にいるからそこに来て」 ――お前が来るのを星を数えながら待ってるよ 鬼が、小さく息を飲む気配がした。 どうしたのかと思っていると、貴方今日は一人なんですか? と意外そうな声が電話から聞こえる。 花街へ行ったり女性を連れ込んだり、はたまた弟子の桃太郎にせがまれて漢方を教えている印象が強いんだろう。 そんな夜より一人で過ごす夜の方が多いと言ったら信じてくれるだろうか、この鬼は…… 「今日は桃タロー君は一寸くん達と朝まで飲み会なんだって」 とは言え、桃太郎を弟子に取ってから本当に一人ということは各段に減ったのだ。 いつも同じ屋根の下に誰かの気配を感じていたが今日はそれもない、久しぶりに感じる本当の“ひとりきり”は驚く程静かだった。 彼を住み込みで雇ってくれと頼んだ残酷な鬼は、白澤の夜をより一層切なくさせた。 閻魔の第一補佐官に桃園を管理する人員を要請したのは自分だったけれど、いったい何を思ってそれを受諾したのだろう。 鬼灯がどんな者を連れて来るのか楽しみで、それが予想より良い子で鬼灯もその子を気に入っている様子だったから、自分が桃太郎にとって益になる存在だと信頼してくれているのだと嬉しくなった。 少しくらいは自分のことを考えてくれたのかな、なんて期待してしまう。 ――では、のちほど 店で待っていないことを責められるかと思ったが鬼灯はあっさりと電話を切ってしまった。 閉店時間を過ぎての訪問だから白澤の意図に任せようと思ったのかもしれない。 「……さて、アイツが来る前に準備しておかないとね」 頼まれていた薬を袋に詰めて、不眠に効く薬……実は鬼神用に処方したものを他の袋に詰めて、まとめて一回り大きな紙袋に入れた。 台所に、鎮静作用のある茶葉と茶器を用意する、淹れるのは相手が来てからだけど出来るだけ待たせないように、これを飲んで桃源郷を散歩して帰れば睡眠薬なんて飲まなくても眠れてしまうだろう。 そして白澤は薬の袋を持ったまま裏庭へ続く廊下を進んで行った。 もう、食事や入浴も済んでいる、わざわざ着替えるのなんて癪だから、寝間着のまま外へ出た。 常春の郷は、夜でもどこか暖かだ。 裏庭にある大きな木、枝から下された二本の綱が一枚の板の両端に括りつけられている。 鞦韆、日本語で言えば“ふらここ”まぁブランコの方が解かり易いけれど、白澤はなんとなくそう呼ぶ方が好きだった。 “ふらここ”の響きが女の子みたいで可愛いと言っても恐らく理解してもらえないし、昔遊んでいるのを見た“鞦韆”の方が耳に馴染みがある。 「これに乗るのは初めてだな」 中国では女性の遊具だったから、作ってはみたものの飾りでしかなかった。 女性を乗せるのもなんとなく抵抗があり使わせたことはない、もしかしたら知らないうちに誰かが遊んでいるかもしれないけれど、白澤から見れば初めて人が乗るのだ。 二本の綱を掴んで、ゆっくり恐る恐る腰を下ろす、少し冷たく感じたけれどそのうち馴染んでくるだろう。 (……鬼灯) 鬼の名を心の中で呟いて、彼が鬼神となったばかりの時を思い出す。 きっと逃げ出した亡者だろう……偶然その場に居合わせた白澤は、幾千の屍の上に立ち地獄を見渡す彼の様子に見惚れたのだ。 得物は血まみれなのに本人は返り血ひとつ浴びていないのだから流石というか、鬼神の名に相応しいと思ってしまった。 そうか、あれは自分と同じ神なのだ。 神以外を格下だと思っているわけではないが、それでも彼が神の名を冠するようになったことを祝福した、心から。 ずっと自分に追いつきたいと願っていた鬼灯の努力が実ったのだと知ったから。 「白澤さん」 鞦韆に揺られていると、不意に彼の声が聞こえた。 鬼灯は白澤の数歩前に立って、じっとこちらを見ていた。 「いらっしゃい、薬ならこのとおりだよ」 自然と浮かんだ笑みを消すことはせず、鞦韆から降りると足元に置いていた紙袋を拾い鬼灯の方へ歩み寄る。 白澤を目の前に置いて鬼灯は一度深く目を瞑り、静かに長い息を吐いた。 いつもの格好をしていると思って来てみたら、寝間着にサンダルという出で立ちで彼は自分を待っていた。 白を基調に緑の刺繍が施されたゆったりとした上衣に、同じ刺繍が裾についた膝丈しかない下衣、神獣の白い足が空中でふらふらと揺れているのを見て自分が何を思ったのか、鬼灯は苦笑を零して目を開けた。 「夜分遅くにすみません、ありがとうございます、白澤さん」 珍しく素直な鬼に目を真ん丸に見開く神獣だったが…… 「なんて言うと思ったか白豚ッ!!」 驚きで無防備な体へ渾身の回し蹴りを喰らった。 薬の袋で手がふさがっているから足が出たのだろう。 「なにすんだよ!!今の本当なんで蹴られたのかわかんないんだけど!!」 今日はまだ何もしてないだろ!! と叫ぶ白澤をフンと鼻で笑い。 「貴方を一発殴ればスッキリしてよく眠れるかと」 「殴ってないよね!?蹴ったよね!?」 「うるさいですね、二発目以降喰らいたいですか?」 「……」 そう言うと自分を涙を浮かべながら睨む白澤に鬼灯は少し溜飲を下げた。 何もしていないなんて冗談じゃない、その姿だけでどれ程こちらの心が見だされたと思っている、なんて勝手な言い分を口に出すことは無いけれど。 もう白澤は土だらけになった服を着替えて、足だけでも洗わなければ寝具の中には入れないだろう。 「クソッ!着替えてくるから台所で待ってろ、お代もそこでいいから」 「最初から家の中で待っていれば良いのに……いい歳こいてブランコに乗って遊ぶなんて子どもですか貴方は」 そんな鬼灯に白澤は、ああやはり日本の鬼にとってコレは子どもの遊戯道具という認識しかないのだと確信した。 少し残念に思いながらも気付かれなかったことに安堵して、先に家への扉を開ける。 玄関からではなく裏の口から受け入れる客人なんてお前だけだよと教えてやったらどんな顔をするだろうか、白澤はそれを想像するだけに抑えた。 「寝付きがよくなるお茶淹れてやるから飲んで帰れよ……」 「はぁ」 大人しくテーブルに座って大人しく出された物を口にする鬼灯に、彼が相当疲れていることを知った。 それが少しでも回復するなら後数発くらい殴られたって良いと思う、どうせすぐ回復してしまうのだし…… 「なに考えてるんですか?」 「え?……ううん、なんでもない」 「ひょっとして眠いんですか、すみませんねご老体に無理をさせて」 「ご老体じゃねえよ!!まあ今度からもっと早めに来てほしいけどね!!」 すると鬼灯は悪びれなく、それは仕事の都合によりますと答えた。 白澤の店にだけお客様根性を発揮する鬼に呆れながらも普段の彼の多忙さを考えれば、少しぐらい融通してやってもいい気がする。 「まぁ、用事がない時ならいいけどね」 「言っときますけど花街にいくのは用事に含まれませんからね」 「なんでだよ!!」 「桃太郎さんがいるんですから、もうそんなに淋しくもないでしょう」 「……え?」 この鬼は今なんと言った? 白澤が花街に通うのは淋しいからだと知っていた? 桃太郎がいれば淋しくないということは、桃太郎が来る以前は淋しかったと知っていたのか? 彼を雇って欲しいと頼んできたのは……もしかして、ひょっとすると白澤を淋しくさせない為? では、もしかしたら、桃太郎がいないと知ってわざと今夜ここに来たかもしれないのか―― 「なぁ」 「ごちそうさまでした、だいぶ眠気も出てきましたしお陰さまで今夜は良く眠れそうです」 白澤の言葉を遮り、鬼灯は素早く立ち上がると、速攻で部屋の出口へ移動した。 「では失礼いたします」 「ちょ、待てや!」 足早に先程入って来た裏口へ向かう鬼灯の後ろを追う。 家主に見送りもさせないつもりか、この鬼。 「夜でもいいから」 白澤の言葉に鬼灯が振り返る。 明るい月の光に照らされた白い頬を掻きながら、素っ気なさを装って彼は言う。 「連絡くれれば、待ってるから」 店の都合を考えない客は迷惑だが、これくらいなら大丈夫、この鬼に限り許可する。 不器用に優しい鬼がまた、白澤が一人でいる時を見計らって来てくれればいい。 「……ええ、わかりましたよ」 鬼は一瞬立ち止まり、無表情でそう告げるとすぐ踵を返し来た道を帰って行った。 (ああもう、鈍感鬼神) 鬼灯の姿が見えなくなった後、白澤はしゃがみ込んで頭を抱える、その頬は夜でも解かるくらいに赤い。 数千年続いた何かを変えようとするなら、今だったろ。 なんて、自分にもその度胸がない癖に鬼灯の方を責めてしまう。 (まぁいいんだけどね、アイツがそのつもりなら僕はこのままで……) 自分はカミサマだから自分の願いより相手の気持ちを優先してしまう、だからこんな下手な誘いしか出来ないし誘われてくれなくても構わないと思ってしまう。 どうせいつか失ってしまうものなら望まぬ方が賢明かもしれない。 神獣は風に揺れる鞦韆を見詰めながら一人思った。 だが、白澤の気持ちとは裏腹に二人の関係は少しずつ変わってゆくのだ。 それからというもの、休日や閉店後に鬼灯が来ると連絡があった際は裏庭で待つことが多くなった。 桃太郎や従業員がいることもあったけれど、危ないから近寄らないように忠告して……実際まだ日が高いうちは喧嘩することも多かったから皆納得してくれた。 白澤の真意に気付く者など一人もいないが、それで良い。 そうして今日も白澤は部屋着や寝間着に着替え鞦韆に揺られ鬼灯をを待つ。 「白澤さん」 こうしていれば滅多に聞けない自分の名前で呼びかけてくれることが解かっているから―― End |