桃太郎が弟子入りするよりも数百年あまり前、白澤は地獄にて長屋の一室を買い取ったという。 白澤がそこに決めたのは「何もない」部屋だったからだそうだ。 水は井戸水を汲んでこなければならないし風呂と厠は共同だったが、此処を使う際に風呂に入る余裕はないし、酒さえ飲まなければ厠も滅多に使わないのでそう不便とは思わなかった。 白澤は床張りの奥に畳を三枚敷き、最低限の衣類と洗面用具などの入った箱と布団一式、小さな机と座椅子をその上に置く。 壁一面に薬箪笥、火鉢、中央に大きくて丈夫な作業台を置き、その上に調合器具、草紙を数冊乗せる。 最後の仕上げとして四方の壁にぺたりと札を貼り付ける、これで窓以外から音や匂いが洩れずに済むからだ。 長屋の大家は初め白澤がここを借りたいと言い出したとき連れ込み小屋にでもする気かと思ったが、これはどうみても簡易的な調合室だ。 当初とは違った意味で心配になる、庭に毒草など干されたら長屋に住む子どもが誤って飲み込んでしまうかもしれない……そう不安げな顔をしていると白澤がクスッと笑って大家を安心させるように話し出した。 「原料は桃源郷から持ってくるし、音も匂いも隣家には漏らしません、近所に迷惑を掛けることはしないよ」 利用するのは地獄で病が流行る時期だけですし、と言われ大家は初めて合点がいった。 つい最近まで地獄で鬼の掛かる疫病が流行していたからだ。 「あの時は本当に大変でしたね」 大家は一言ひとこと搾り出すように呟いた。 思い出したくもない、閻魔庁の職員達の初動対策が適切だったお陰で被害は最低限に抑えられたが、街中も診療所もまさに地獄絵図だった。 暫くは地獄中の医師が駆けずり回っていたが、それでも対応できないと判断した閻魔庁より中華天国の白澤の元へ応援が申請されたそうだ。 白澤は申請があった当日には地獄入りし、疫病対策の指揮官だった鬼灯に現状を説明された後、既に準備していた大量の薬を配布し始めた。 事体が劇的に好転し始めたのはその時からだろう、翌日には白澤の知人という医師も数人応援へ駆けつけ、日本の医師と連携をとりながら全力で治療に当たった。 白澤は鬼灯と共に皆の指揮をとりながら時々桃源郷へ薬を作りに戻るという日々を過ごし、鬼灯も白澤に対応を任せ通常業務にも集中できていて、住民達に二人はいがみ合ってはいてもいざという時に意思の疎通だけは完璧に出来るのだなと関心していたのだった。 「あの時は桃源郷に戻る時間も惜しかったから、地獄にも落ち着いて薬を作れる場所があったらいいなって思ったんだよ」 この中国の神獣は病の流行るその時期に本拠地を日本地獄とするつもりなのか、確かに中華地獄より医師薬師が不足しているし、必要性が大きい所を選んだと言われたらそうなのだけど不思議に思う、それとも神や仏にとっては国なども皆、森羅万象の一部に過ぎないのか。 あの時も、あまりに白澤が協力的だから“どうしてそんなに親身になって下さるのか”と誰かが質問したという、すると白澤が切なげに笑み。 『いつかの閻魔庁の記念式典で僕は凶兆を運んでしまったからね、この疫病もそれが原因かもしれない』 だから罪滅ぼしだと白澤が言おうとしたところで、鬼灯が割って入り。 『嘘を吐け』 その鋭い眼力で神獣を黙らせたという。 『式典が終わったあと念のため調べてみましたが瑞獣に凶兆を運ぶ能力はないそうですね、つまりあの時の行動は完全なる私個人への嫌がらせだったのでしょう』 忌々しい、と吐き捨てながら続けた。 『地獄を天国と対等だと認めているのでしたら自ら泥を被ろうなど思わないで下さい、酷い屈辱です』 これに意外そうな表情をしたのは白澤だ。 自分がそう言えば鬼灯が一番に叱責してくるものだと思っていたし、その場には白澤を恨んでしまえば楽になれる者も多かったのだ。 大家が漠然と当時のことを思い出していると白澤はハッと気付いたように切り出した。 「そういえば、この長屋の人達は大丈夫だった?此処周辺は他の医師が担当してたから僕詳しいこと知らなくて」 「ああ……この長屋でも数人の死者が出たんですよ、隣に住む若い夫婦もそうでした……可哀想に、さぞや無念だったでしょう、まだ小さい子もいたのに」 大家の話を聞いている内に段々と普段は緩い眉間に皺が寄っていく。 「……その子は今どうしてるの?」 「え?はい、一応今年分の家賃は貰っていたのでそれまではここに棲むことに……食事等は今のところ近所の者が交代で世話していますが、それもいつまで出来るか解りません」 元々、貧しい者が住む地域だと聞く、余所の子どもの面倒など見る余裕はないだろう。 「……あのさ、その子に会わせてくれないかな?」 「え?」 顔を上げると白澤がにこりと人好きのする笑みを浮かべていたので、大家はつい首を縦に振ってしまった。 「おーい真赭、お客さんだよ」 そう声を掛けると大家は戸を二つ叩き、開いた。 「こんにちは、お邪魔します」 真赭(まそほ)と呼ばれた子どもは部屋の隅でカラカラと糸を紡いでいた。 恐らく大人から与えられた仕事なのだろう、小さな子が日なが一日こんな薄暗い所で働いているなんて……とは思えないのは、白澤がもっと酷い境遇の子を幾千と見てきたからだ。 「はじめまして、僕の名前は白澤といいます」 「ッ!?」 目の前に現れた真白な神獣に子どもは円らな目を見開いた。 その名前はまだ幼い真赭でも知っている、森羅万象の知識を司る神であり、漢方の権威。 ――白澤様の作った薬よ……これで貴方は良くなるわ―― そして最後に聞いた母の言葉に出てきたのが、彼だった。 「白澤……?」 「こら、白澤様と呼ばないか」 「いや、別に呼び方なんて何でもいいって……ね、真赭くん」 柔らかな声で自分を呼ぶ白澤を警戒しながら見上げると、声と同様に優しさを湛えた笑顔で受け入れられてしまった。 「君に頼みがあるんだ」 男の人を“美しい”と感じたのは初めてだった。 この時のことは一生忘れないと後に真赭は語った。 「ここが僕の部屋だよ」 大家に手を引かれ白澤の部屋に連れて来られた真赭はその様変わりした内装に驚いた。 今朝から隣ががたがた五月蝿いと思っていたら、いつのまにかこの神獣が引越しをしていたのだ。 「この部屋は、先日みたいに疫病が流行った時に薬作りに使う為に買ったんだ」 疫病、薬という言葉に興味は引かれる、真赭の両親は彼に薬を譲り亡くなったから、もっと多くの薬があれば二人とも助かったのだと、彼は幼いながらも理解していた。 白澤がもっと沢山薬を作ってくれていたら……なんて怨んではいけないとも理解している。 「君に此処の管理を頼みたい」 「管理?」 「そう、念の為に用意しているだけで滅多な事じゃ使わない部屋だからね」 でも、有事にはすぐに使える状態にしておきたい。 「君には毎日窓を開けて風を通して、週に一度は掃除と布団を干してもらいたい……火鉢も定期的に使って欲しいな」 「……頼みって、そんなことですか?」 「うん、それをしてくれたら僕がいない間この部屋を好きに使ってくれていいから」 それはつまり、此処に住み込んでもいいということか―― 「月に一度はちゃんと君が仕事をしていたか見に来るからね、お給料もその時に渡すことにするよ」 「お金も下さるのですか?」 「うん、仕事に報酬はつきものだろ?君がもしサボってたらその分減るけど」 「サボりません!!頑張ります!!」 「じゃあ、やってくれるんだね」 そう訊くと真赭はこくこくと何度も首を縦に振った。 神獣の目が糸の様に細まる、切れ長の目なのに優しい印象なのは笑うと頬が少し盛り上がるからだろうか、兎に角穏やかな笑みを浮かべながら彼はその子の頭を撫でていた。 それから、その真赭という少年は白澤との約束通り毎日部屋に風を通し、週に一度は掃除と布団干しを行い、たまに(薄寒いと感じる夜に)火鉢へ火を入れた。 少し大きくなるとサボり方も覚えたが、それによって仕事の質が悪くなることも給与が減ることはなかった。 白澤の方も少年との約束を守り月に一度、もしくはそれ以上の頻度で長屋に通い、真赭や真赭の友人達に学問を教えた。 彼の話は勉強の苦手な子どもにとっても聞きやすく面白いもので、優しい雰囲気も合わせてすぐに長屋の子ども達の間で人気者になった。 ただ、白澤が一番気に掛けていたのは親のいない真赭のことで、真赭だけは特別に白澤から長屋の屋根の上へ運んでもらい、そこで多くのことを語らった。 二人が一番好きなのは黄昏時、太陽のない地獄でもいたる所で燃える炎のお陰でまるで現世の夕焼けのように空が朱色に染まる。 そこからは地獄の中心、閻魔庁がよく見えた。 「あそこには地獄で一番偉い人と、地獄で一番怖い鬼が住んでるんだよ」 そう語る白澤の声には色んな感情が読み取れて、真赭は胸が苦しくなったのをよく憶えている。 ――あの神獣様は今もあのような瞳で、地獄をご覧になっているのだろうか―― * * * それから数百年後、天国は桃源郷にて真赭は桃太郎お手製の茶菓子を御馳走になっていた。 彼は今、現世に転生し天寿を全うした本当の両親と共に天国で暮らしている、彼の両親は生まれ変わっても夫婦だった。 「そんなことがあったから、白澤様を“お母さん”って呼んでるんですね」 「はい、白澤お母さんは私達に色んなことを教えて下さいましたので……あ、本当のご両親はその事について特に気にしていないようなのでご心配なく」 極楽満月の裏庭にある、小さな茶飲みスポット。 桃太郎と真赭が談笑する横で白澤は今日もご機嫌に饒舌であった。 「安心して、この子達に教えていたのは主に学問だし、僕にとって漢方の弟子は桃タローくんだけだから」 「いや別に嫉妬してないんで、ていうか無駄にキラキラした顔で寄って来ないでください」 鬱陶しそうに白澤を追い払う桃太郎に真赭は目を細める、血は繋がっていないといっても笑顔の仕方はそっくりだった。 「まぁ僕が直々に教えた子達だからね、今はみんな地獄で立派な企業家だったり、研究者だったりしてるよ」 急に子ども自慢か!と思ったが、桃太郎にはそれより気になる事がひとつあった。 「なんで“お父さん”じゃなくて“お母さん”て呼ばれてるんですか?まあこんな“お父さん”イヤでしょうけど」 白澤は慈愛の深い神だから、母性と繋がるところもあるかもしれないが見た目は完璧に男だ。 彼を母と呼ぶのは少々無理があるのではないか、桃太郎と同じで違和感はあまりないけれど。 「桃タロー君て割と失礼だよね……うーん僕も本当は“お父さん”が良かったんだけどさぁ」 「私達の父親役は他にいましたからね」 「……」 急に黙り込んでしまった白澤に桃太郎は不思議そうな眼差しを向ける、今の話で相手はだいたい想像がつくのだけど……この人その頃からあの鬼を想っていて全然進展させられてないってどういうことかと思う。 「ねぇ白澤様」 「待って、言わないで、解かってる解かってるから」 桃太郎の前に掌を出して制止を書けた白澤は頭を抱えてしまった。 「お父さんって鬼灯さんですか?」 「何で言っちゃうのかな!?」 その通りだけど!と、叫びあげる。 「ねえなんで?なんで他の人は気付かないのに君達は気付いちゃうのさぁ」 「そりゃあ家族のような関係ですからね」 「その様子じゃまだお父さんに何も伝えていないんですね」 「もう!そう呼ばないでよ!!お父さんとお母さんなんてまるで僕とアイツが……ッ!!」 そして自分の言葉に赤面して崩れ落ちる白澤に、残った二人は苦笑するばかりだ。 自覚した時には既に絶望的だった恋は、拗らせた病のように彼に付き纏っている、ただ永遠に治らなくても良い類の病だとも思えてしまう。 (これは言わない方がいいですね) 真赭は数日前、用事で閻魔庁を訪ねた時のことを思い出した。 あの時、たまたま鬼灯と会い、今のように想い出話に花を咲かせた後、別れ際にこう言われたのだ。 『そろそろ母さんの所にも顔出してやってください』 あれも不思議と違和感のない台詞だと感じたものだ。 突然くすくすと、白澤に似た笑みを浮かべた鬼灯に似た話し方をする青年を見て桃太郎はどうしたのかと訊ねた。 「いえ、ただの思い出し笑いです」 この弟子は師匠の気持ちは知っても、その想い人の気持ちまでは気付いていない、反対に鬼灯の気持ちだけ知っている者もいるかもしれないが、鬼神と神獣が同じ病に侵されていると知っているのは恐らく世界に自分だけ、もしくは自分と世界の悪女ツートップだけ。 それが可笑しくてたまらない。 (もう少し、このままでいいですよね) 独り立ちしてから何百年も経っているけど、もし鬼灯と白澤がどうにかなってしまったら自分は二人ともに嫉妬してしまいそうだから、まだ秘密だ。 白澤がわざわざ閻魔庁がよく見える位置にある部屋を買った理由も真赭が鬼灯と二人きりの時に彼を“お父さん”と呼び、鬼灯が真赭と話す時に白澤を“母さん”と呼ぶことも…… 「ところで今その長屋はどうなってるんですか?真赭さんはもう住んでないんですよね」 「ああ……今は僕が一人で地獄に往診とか配達する度に行ってるんだよ、あの鬼との和漢薬の共同研究場所みたいになってるからアイツもたまに片付けたりしてくれてるよ」 ……だがしかし、自分が思うより二人の仲は進展しているのかもしれない。 END |