アルカリの花に酸性雨、地球を溶かすと言われた雨が初めて降ってから幾千と時が経っているが地球はまだ溶けてはいないし人類もしぶとく生き残っている。

神の抱いた恋心もまだ変わらずにいて消える兆しすら見付けられず、それどころか日増しに恋しさが募っていた。

純白な想いは吐き出される事無く、月日の数だけ紅い舌に蓄積されてきた。

そんな白澤が想い人から呼び出されたのは出逢いから一万年と経った頃だった。

四方を四葩(紫陽花)に囲まれた四阿の中で二人きり、ぼやけた色彩の中で幾千万と見てきた黒色の衣だけが鮮明に浮かび上がる。

雨は周囲の音を遮断し、いつもよく響くこの男の低音をよりいっそう引立たせた。


「名前を呼んでください」


鬼灯の神格が白澤と並んだのだという。

この鬼の功績を思えばもっと早く並んでも良かったように思えるが、こう見えて忠心深い鬼灯は閻魔大王より位が上がることを良しとしなかったのだ。

今回閻魔大王の神格が白澤を越えたことにより漸く鬼灯も神獣クラスの鬼神へと進化したらしい。

兎と亀の兎の如く悠々自適に暮らしていた白澤は、それでも人々の為に薬を作り続けたからかゆっくりではあるが神格が上がっている。

それに追い付いたのだから彼や閻魔の働きは相当なものだということで、祝いに名前くらい呼んでやってもいいと皆そう言うだとう。

白澤だってこの男の願いなら叶えてやりたいと思う、しかし。


「……」

「もう私は貴方が怨念を込めて呼ぼうが影響を受けたりしません」

「おぼえてたのか……」


気が遠くなる程昔にもっともらしい説明の後で『お前の名を呼ぼうとしても音となる前にこの舌が封じてしまうんだよ』と告げたことがある。

すると鬼灯は『私がこれから神格を上げてゆき、貴方の術の影響を受けない程になったらその時は私の名前を声に出して呼んで下さいますか?』と訊いてきた。

あの時の話をずっと忘れていなかったらしい。


「約束しましたよね?私が貴方と並んだら名前を呼んでくださると」

「……あんな一方的なの約束のうちに入るかよ」


だいたいお前は返事も聞かなかっただろ……と顔を逸らすと四阿の外では白糸のような雨がしとしとと紫陽花を叩いていた。

その優しい色とは対照的に向かい立つ鬼は大きな存在感で圧迫してくる、白澤は視線を戻し溜息を吐いた後そのままハッキリ言い放った。


「イヤだよ」


瞬間、鬼は眉を顰めた。


「……何故です?名前を呼ぶくらい良いじゃないですか」


そんなに私が嫌いですか?

訊ねる鬼の顔はどこか痛ましい。


(違う……)


鬼灯の事はけして嫌いではない、今も喧嘩はするが口論が楽しいから続けているだけで本当はもっと穏やかな時を過ごしたいと思っている。

この鬼もきっとそうなのだろう、そうでなければ数万年もの間、縁を持ったりしない、白澤にとって鬼灯はこの国で一番長い付き合いになる相手だ。

だからこそ、その縁を断ち切るような事はしたくなかった。

鬼灯から見た白澤は好色で軽薄で全ての女性へ平等に愛を降り注ぐ神獣の筈だ。

もしそれが偽りだと知られたら、もし白澤が一途に愛す者が己だと知ったら鬼灯はどう思うだろうか?

自分の心に嘘を吐き、他人を侮辱し続けた事を地獄の鬼はけして許さない。


気持ち悪い

変態

そんな目で私のことを見ていたんですか

もう二度と私の前に姿を現さないで下さい

嘘吐き

裏切り者


等とこの鬼に言われたら体は平気でも心は消滅してしまうかもしれない。

好きな人の言葉は、たとえ言霊でなくても力が宿るのだから……


「いいだろ、別に僕が名前を呼ばなくたってお前は有名人なんだから」


閻魔大王からもらった大切な名前だから天敵の白澤であっても呼んでもらいたいのかもしれない。

だが今や地獄中に名の轟いている鬼灯なら、自分よりずっと高位の神々からも名を覚えられているだろう。

鬼灯という存在は世界中から認識されている、もうそれでいいじゃないかと思いを湛え鬼灯の瞳を見詰めた。


「……」


鬼灯の胸では煮え滾るような怒りと凍てつくような悲しみが渦巻いていた。

何故お前は呼んでくれない? 一度くらいいいだろう? どうして別によいなどと思ってしまう?


「おい」


様子の可笑しい鬼灯に気付いた白澤がその額へ手を伸ばした瞬間、鬼灯の大きな手がそれを掴んだ。


「ッ!?」


どくどくと血潮が流れる音が耳の傍で響く、胸が苦しい、まるであの夜だ。

自分の他に誰もいない、暗く狭い小屋の中で急に息が苦しくなって必死で酸素を求め窓へ這ってゆく。

窓から乗り出し外の空気を吸った後のことは憶えていないが……次の朝きちんと目を醒ましたのだから呼吸はできていたのだろう。

それから村の大人達が自分の手を引き祭壇の上に乗せた。

皆は最後まで自分を『丁』と呼んだ、それが召使いを指す言葉だと後々になって解りひどく納得したのだ。

血が滲む程に拳を握り、目の前の神獣を見据えると怯えたように肩を竦めた。


証が欲しい。

己がたしかに『鬼灯』だという証が欲しい。

世界中の有象無象などには興味はない、ただ貴方に認識されたいのだ。

もしも自分が消え、他の全ての者から名前を忘れられても唯一人この神獣が憶えていてくれたらそれで良いと思えるくらい


“愛しているのに”


「……ひっ!?」


鬼灯は掴んだ手を強引に寄せ乱暴に口付けた。

いきなりの事に驚いた白澤は目を見開く。

口に出して言って貰えないのなら、せめてその舌に封じた名を聞きたい。

呪詛でも何でもいい、とにかく白澤の声で呼んで貰いたかった。


――ほおずき――


――ほおずき……――


――鬼灯――


舌を舐めた途端、続け様に声が脳へ直接響いてきた。

聞いた瞬間、鬼灯の頭は真っ白になる。

その隙に白澤は鬼灯の肩を突き飛ばし、右手で頬を叩いた。

彼が暴力を振るったことなど初めてだが、それよりも衝撃だったのは、聞こえた“声”


「……」



――鬼灯――


思い出しただけで胸が締め付けられる。

あの声はけして大嫌いな相手を呼ぶようなものではなかった。


「これで解ったろ……僕がお前の名前を呼べない理由」


叩いた手がじんじんと痺れる、神の柔らかい手で骨格のしっかりした鬼の頬を叩けばそうなるだろう。

だが、それよりも痺れるのは剥き出しになってしまった心だ。


「この……馬鹿鬼ッ!」


目を真っ赤に充血させ、喉を震わせながら白澤が吼える。

これでもう全て御終いだ。

今まで何万年と隠し通してきた真心の欠片は彼の舌を通して渡ってしまったから……もう此処にはいられない。


そのまま駆け出そうとする白澤の腕を鬼灯が咄嗟に掴んだ。


「何処へ行くんです?外は雨ですよ」

「濡れたって構うもんか!!」


首をぶるぶると振りながら叫ぶ、握られた手は渾身の力を込めてもビクともしない。

お願いだから放してくれ、行かせて何処か遠くへと。

そう思うのに鬼灯は白澤の手を引いて、自分の胸の内へすっぽりと包み込んでしまった。


「はなせっ」

「――白澤さん――」


もがこうとする神獣の耳のすぐ後ろで、名前が呼ばれる。


(え?)


驚いて顔を見上げると、鬼神はまた口を開いた。


「――白澤さん――」


それは万感の想いを込めた“言霊”だった。


好きだと

愛していると

離れないでほしいと

放しはしないと……


そう告げる。


「……解っていただけましたか?」


私と貴方の気持ちが同じだということに、と、そんな顔をして鬼灯は再び白澤の唇を塞いだ。

今度は優しく啄むような口付けだった。

白澤が思わず口を開くと鬼灯は深く舌を滑り込ませてゆく。


――鬼灯――


初めに聞いたのは切ない響きだった。


――ほおずきっ――


次は弾むような響き、自分が呼び出した時だろうか。


――鬼灯――


焦れるような乞うような響き。


――鬼灯ぃ……――


欲望に濡れた響き。

哀しい響き、惚けたような響き、笑みを含ませた響き、寂しそうな響き。

舌を絡める度に自分を恋う白澤の声が聞こえてくる。

鬼灯はもっと聞きたいとその唇と舌を夢中で貪った。


「――白澤さん――」


鬼灯も息継ぎの度に、彼を呼ぶ。

万感の想いを込めた、熱い熱い響きが白澤のすぐ間近で聞こえる。

唾液が混ざり合う水音と自分を呼ぶ低い声が雨で隔離された四阿の中に響くのを聞いて白澤の想いも高ぶってゆく。


「ほ……ずきぃ……」

「ハァ……白澤さん?」


眼を合わせると、潤んだ瞳が真っ直ぐ此方を見ていた。


「鬼灯ぃ……」


啜り鳴くような声が鼻先を掠める。

音として口から発せられた名前は心に直接届くようだ。


「白澤さん!」


言霊でも何でもない彼の名前を返して、再びその唇を塞いだ。

歯列を奥から順に撫でてゆき、口蓋や頬の内側など咥内中を嘗め回す。

敏感な場所があるのか時折鼻から抜けていく息にいちいち興奮する。

白澤からも差し出された舌を甘噛みすると引っ込められたので逃すまいと吸い付く。


――鬼灯――


タイミング良く可愛らしい声が聞こえたもんだから、更に激しくしゃぶりだした。


(ああどうしよう……)


止まらない――

雨脚がどんどん遠のいて、ゆっくりと夕陽が差し込み始めていることにも気付いているのに止める事は不可能に思えた。

これも全て白澤がいけないのだ。


白澤が『鬼灯』の名前を呼ばなくなってどれくらい経つ?

この名を舌に封じ初めてから何年だ? そんな前から己の事を想ってくれていたんだろうか?


こんなに切なく甘い想いをずっとずっと身の内に押し込めてきた。

愛する相手から叩き付けられる暴力と暴言を受け入れて、それでも愛することを止めなかった。


「白澤さん……」


なんと尊いのだろう――


「ほ……ずき?泣いてるのか……?」


泣いてはいない、涙が浮かんでいるだけだと心の中で言い返せば、馬鹿だなあと、優しく微笑みかけられた。


「好きです……私も多分ずっと貴方を愛してた」

「うん」

「ずっと気付けなくて、すみませんでした」

「いいよ、もう」


それよりも……と、今度は白澤の方から唇を重ねてきた。

続きを強請られてしまったのだと気付いた鬼灯はふわりと背中に手を回しながらそっと彼を抱き寄せた。

大切な私の神様、彼が封じてきた私への想いを少しでも受け取る為に今日はキスだけに集中しよう。


――鬼灯――


我慢できるか、既に不安だけれど……





* * *





一時間後、紫陽花の庭園をとぼとぼと二人並んで歩く。

すっかり日はくれてしまったが所々に置かれた雪洞のお蔭で足元は明るい。


(馬鹿鬼……)


あれから散々貪られ白澤の唇は皮がむけて真っ赤だし、舌は痺れている。

明日は顔が筋肉痛になるのではないかと白澤は心配になった。

普段から表情筋の固まっている鬼灯とは違って自分は笑顔が命の客商売なのだ。


(明日はお店を休みにするか)


唇だけではなく顔中がぽわぽわと熱いし、もしかしたら熱が出るかもしれない。

キスひとつ(ではなかったけれど)で熱を出すなんて子供のような自分に呆れながらも幸せな気分に浸っていた。


「ねえ白澤さん」

「ん?」


隣に歩く恋人になったばかりの鬼から話しかけられ、神獣はご機嫌そうに返した。


「貴方いったい何回くらい私の名前を舌に封じ込めたんですか?」

「え?……えっと、そうだなぁ一万年分だから一日一回と考えても三、四百万くらいいってるんじゃないか?」

「そうですか……」



ならば暫くはキスをする時にあの声で楽しめそうだなと、鬼灯は満足げに頷いた。

まあ、あの声が聞こえなくなったとしても本物の声で鳴かせてみせるつもりではいる。

鬼灯にとっては白澤が今こうして歩けている事が少々不服だった。



(今度は足腰立たなくしてやります……)



と、付き合いたてで一番恋人を甘やかしたい時期である筈なのに何故か加虐の心に火が灯ってしまった鬼灯。

彼の心境を知らない白澤はただただ幸せに浸りながら夜の散歩を楽しんでいたのだった。







おしまい