神の領域の方々の間で私に想い人がいると噂が?

誰ですかそんな出鱈目を触れ回っているのは……は? 縁結びの神が?
私を一目見て誰かに懸想していると解かったと……それでは皆さんが信じてしまうのも無理はないでしょうね

そうですね、貴女には隠しておく必要もないですから言いますけど、たしかに私には愛する方がいらっしゃいますよ
ただ相手は知られると色々と面倒な方なんて秘密にしているんです

何故貴女には話すのかって? だって貴女はご存じでしょう、私がアレに恋焦がれていることを……
アレのどこが良いのかと訊かれても困ります、私自身どうしてあんなものに惹かれているのか解らないのですから

何時から好きだったのかも解かりませんが、ただ一目見た時からアレを他のモノとは違うのだと感じたのは憶えています
私の珍しいモノ好きは案外アレからきているのかもしれません

この世のものとは思えない程の美しさを持つあの男が、この世の全てを識る神だなど皮肉だと思いませんか?
人がこの世に誕生してから其の罪も穢れも全て見てきた癖に、それでも人を愛し、人の近くに在ろうとします
薬局を開いたのだって女性にモテたいからや遊ぶ金が欲しいから等と言っていますが、そんなことをせずとも中国妖怪の長という威光を使えば女性はホイホイ寄ってくるでしょうし、金だってアレの知識があればもっと簡単に手に入れる方法はあるでしょう
なんだかんだ言いつつ、人が病に苦しむのを黙って見ていられない奴なのです
瑞獣だからかもしれませんが、個々の不幸に素早く気付き、負の感情に敏感という稀有な才を持っています
有限なる者の悲しみ等けして理解できない存在の癖して、それを癒す手段を知り存分に使ってくるのです
つくづく鬼とは正反対の生き物だと思いませんか? 鬼は……私は、人間をそんな風には思えませんから

貴女は私が『みなしご』だということを知っていますよね
生贄として殺された身だということも知っていますよね

私はそのことをアレに話したことがあります
酷く酔っていたしきっとアレは憶えていないけど、あの時きっとアレは私が自分に甘えているのだと思ったことでしょう
半分当たりで、半分外れです
確かに私は私の人生を不遇だったと思います
『みなしご』だからと理不尽な仕打ちをうけ、不当な差別をうけてきた事を、赦すつもりはありません、これからもずっと

ただ、今は色んな人に愛されている事を自覚していると語りました
子供の頃の思い出で一番印象に残っているのは白い獣の背中に乗って現世に降りたこと、青年時代の思い出で一番印象に残っているのは白い神に酒を呑ませその知恵を聞き出したこと、和漢親善競技大会で下らない諍いを起こしたこと、記念式典に泥を塗られたこと
生きていた頃の辛い哀しいことを思い出す前に、そんなことばかり思い出してしまう……腹が立つけれど、私があの頃に感じていた『孤独』を乗り越えることが出来たのはアレの影響も強いのです
ええ……そんなことを話して聞かせたかったのですけどね、アレが急に顔を真っ蒼にさせてしまったから、具合が悪いのかと思い先に帰してしまいました
だから結局言うことはできなかったんです

『私の孤独はあなたに癒された』のだと

ん? それだけでアレに恋愛感情を持っていると言えるのか? 感謝や敬慕の気持ちを勘違いしているのではないかと訊かれますか……
そうであればアレを組み敷き、美しい心を陵虐し、私のところまで堕落させたいなんて妄想……いや、妄執など抱かないでしょう

はあ……男同士だから、子を望めぬが良いのかと?
そうですね、あの世に居場所が出来ても天涯孤独の身であるのは代わりないので、自分と血の繋がった家族というものは、正直欲しいと思います
閻魔大王が語る子供や孫のように私も己が無条件で愛し、愛を返してくれる存在というものに触れてみたいと思ったこともあります

しかし、私は偏愛なのです
いくら血が繋がっていようと愛する人との間に出来た子供でなければ愛せない
けして必要ないわけではありません
ただ、私にとって一番重要なことが欠けていたら意味がない

そうです


あの神獣の子でなければ意味がない




* * *




白澤は、家の裏戸へ手をかけながら、いつか日本の国造神に話したことを思い出していた。
「いつか、あいつが心から愛する人と結ばれて、子ができたら、その子を代わりに生んであげるんだ」
そう言った己は、なんて浅はかだったのだろう、なんと驕傲だったのだろう、胎に鬼火を宿すことがこれ程までに苦しいとは思わなかった。

子袋だけではない、臓腑総てを灼かれているようで、体全体が燃えるように熱い。
なんとか分身を造り出し自らの部屋に寝かせてきたが、その所為で余計な体力を失った。
やはり、あの鬼に教えなくて良かった。
自分の子を孕んだ相手が、このような状態になるなんて、いくら冷徹な鬼灯とはいえ耐え切れることではないだろう。
絶対内緒、一生内緒、あの鬼の秘密をこれ以上誰にも知られてはならない……たとえ本人であったとしてもだ。
そう思ってきたけれど、ここにきて内緒にすることが一つ増えてしまった。

ずっと、あの鬼とあの鬼の愛する者との間、代わりに生もうと決意していた。
あの鬼の妻があの鬼の子種を受精したら気付かれぬように受精卵を己の中に移し育てようと。
彼女の胎には仮初めの赤子を移して、生んだ後に入れ替えてしまえばよい……そうすれば鬼火に灼かれずに済むのだと思っていたのに。
どうして。

(僕との間に子供ができたなんて……)

己の不在を気付かせぬよう、店や弟子を任せられる分身を造り出す術を覚えた。
己の場所を悟られぬよう、妊娠期間中に身を寄せる誰も近づく事の出来ない現世の霊山を探し当てた。
そこは何もない場所だから霞を食べて生きる術を身に付けた、胎の子に栄養をやるために神力だって溜め込んだ。
……そうやって、いつくるか解からない日の為に必死過ぎるくらい準備してきた。

なのに、どうしてこんなことになった。

彼の子を生む為に子宮と同じ役割をする器官を己の身体の中に作っていたからか、いや、違う……自分が望んだからだ。
彼との間の子を生みたいと願ったから、たった一夜の過ちで――白澤は鬼灯の子を孕んだ。

「ぐっ……がはぁ」

普段の二日酔いや胃潰瘍による嘔吐感とは比にならない、焼き爛れた臓腑が喉をせり上がってくるような、気持ちの悪さ、痛み。
これでは計画を一から練り直さねばならない、自分だからまだ耐えきれているけれど、きっと鬼や妖の娘なら受精した瞬間に焼き殺される。
今なお孤独に囚われている鬼灯に、血の繋がりを与えたいと、愛する者との家庭を贈りたいと思っていたのに……どうしてこんなに難しいのだろう。
どうして、他人が当然のように手に入れられる幸せをあの鬼は掴めない? あんなに美しく強く、皆に愛される者はいないというのに、どうしてどうして自分はこんなに無力なのか。

(僕は神なのに、たった一人を癒す力もないのか!!)

ぼとぼとと珠のような涙が地に落ちる、どうにか家の裏に出て、身の熱を鎮めようと地面に擦りつけるが、天国の温かい気候では服を汚すだけ。
苦しい、熱い、痛い、熱い、気持ち悪い、熱い、この熱の根源を早く排出しなければと本能が告げるが、白澤は首を大きく横に振った。

(駄目!!駄目!!)

額の目が地面に擦れて赤く腫れているが、そんな痛みも感じない。
白澤は子が流れぬように、そんなことをしても意味がないかもしれないが、キュウと胎に力を入れた。
体は更に熱くなり苦しいけれど頭は逆に冴えた。
たとえ母は自分であってもコレはあの鬼の子だ、死なせてなるものか。
この子だって望んで人を焼いているのではない、普通の胎児と同じ様に栄養を求め、安寧を求め、母の胎で必死で生きようとしているだけの命。
どうして殺してしまえようか、この子が無事生まれてくるまでの十月十日、絶対にこの灯を消してはならない。

――たとえ、あの鬼に望まれなくとも……

白澤の瞳からまた涙が零れた時、リィンという鈴の音が聞こえ次の瞬間周囲から全ての音が排除された。

(……あれ?)

体は未だ熱いが、少しだけ楽になった気がする。
少なくとも嘔吐感は失くなった。

「お迎えに参りました。白澤様」

鈴を転がしたような、高く清らかな声、それが近くに降り立ったのを感じた。

「お辛かったでしょう、暫しお眠り下さい」

その人は泥に塗れた白澤の身体を抱きかかえると、耳元で囁いてきた。
白澤はその声に齎された安堵感と疲労感によって急激な眠気に襲われる。

(僕、男なのに……女の子からお姫さま抱っこされるなんて……)

降ろしてもらわなきゃ、恥ずかしい――そう思いながらも襲ってきた眠気には逆らえず、全ての瞳を閉じてしまった。



* * *



白澤が目を醒ますと、眠りにつく前に感じていた熱と苦しみが蘇っていた。

「くっ、ふぅ……??!!」

此処は何処だろう、寝台の上に寝かされているのは解かる、白澤は苦しげに眼を見開き辺りを見回した。
気を失っている内に神獣姿に戻っているが、それでも余りある寝台と、その数倍はある広さの部屋、床も壁も大理石で出来ていて寝そべったら涼しそうだ。

「気が付いたか」

キィと、豪華絢爛な扉が開き、小柄だが妙に威圧感のある男性が部屋に入って来た。

「イザ……ナキ……様?」

日本の国造の片神、伊弉諾命、白澤の内に秘めた想いを唯一知る存在。

「ツラいだろう、この部屋の床や壁には氷の神の描いた陣が掘られているのに、それでも尚熱いではないか」
「イザナキ様……何故? いけない、こんなことをしては日本天国と中華天国の関係が」

瞬時にこの神に拾われ、匿われたのだと理解したのだと、体は燃えるように熱いのに何故だか寒気を感じた。
日本の最高神が中華天国の持ち物である白澤を勝手に宮殿に入れたなどあっては国際問題に発展しかねない、鬼灯の子を宿すなら誰にも知られてはならないのと同時に誰にも迷惑はかけないと決めていた。

「そんなこと気にするな、目の前で焼け死のうとしている妊婦をどうして放っておけるものか」
「妊婦て……僕男なんですけど」

それに、不死だから死なない、と続けると、やけに真剣な瞳で見据えられた。

「此処を出て行きたいのなら好きにすればいい……しかしお主ひとりで赤子を無事生むことが出来ると思っているのか?」
「……」
「人型を保つことが出来ぬ程消耗しているのだ、食糧を提供する者がおらねば子に栄養を行き渡らせられないだろう」
「……それは」
「大丈夫、ここは私と家族以外は滅多に立ち寄らぬ場所だ、中で大人しくしていれば誰も気付きはしない」

まるで脅しだと白澤は感じた。
ただでさえ弱みを握られているのに、これでは逆らうことが赦されない。

「……わかりました……お世話になります」
「フ……素直でよろしい、ところで」

白澤が堪忍して此処に留まると言うと、イザナキは漸く破顔してみせて

「お主と鬼灯殿との子を成せたのだな……」

残酷なほど優しい声で、白澤の胸を抉った。



* * *



相手から望まれたわけでもない子を生むというのは、果たして相手の為と言えるのだろうか?
白澤は鬼灯と自分の子を宿す下腹部を撫ぜながら、子供の将来を思った。
鬼灯は白澤がこの子を連れていても自分の子だとは思わないだろう、だって鬼灯は白澤と性交したことすら憶えていない。
自分が腹を痛めて生んだ子をどこぞの娘に生ませた子だと思われる、結婚もせず独りで育てると言えばどんな罵倒雑言をかけられるか解かったものではない。
きっと軽蔑したこれまで以上に冷たい視線を浴びせられるだろう、しかしけして彼との関係は切れないのだ。

「今度こそ、あいつとあいつのお嫁さんの子を生んでやんなきゃならないしね」

体はこれで少しは慣れるだろう、だから二回目は、もっと周到に準備をしておくのだ。
そう語ると、自分を膝枕していた女が顔を顰めた。

「こんな苦しい思いを、今度は一人で耐え切るつもりですか? 白澤様はもっとご自分の身体を大事にしてください」
「ふふ……ありがとうナキサワメちゃん」

彼女の名はナキサワメと言う、イザナキの娘だった。
極楽満月の裏口から白澤をこの宮殿へ運んだのも彼女だから、イザナミに似た華奢な体でもそれなりに力があるのだと思われる。

水の神である彼女に冷気を当てられている間だけ白澤は回復し、言葉を交わすことが出来る……と言っても少し朦朧とした状態だが、それ以外の時は胎を灼かれる痛みでもがき苦しみ、息をするのも精一杯だ。
よって現在白澤がこの宮殿でマトモに話が出来る相手は彼女しかいないのだ。

イザナキや家宅六神たちが自分が此処にいることを許すのは、出産の際に女陰を焼かれ死んだというイザナミと今の自分を重ねているからだと解かる、しかしナキサワメはイザナミが死んだ後に生まれた子であり、イザナミとは面識がない、だから初めどうしてこんなに親身になってくれるのか解らなかった。

白澤が素直にその疑問をぶつけるとナキサワメはどこか遠くを見ながら「私が雨を降らせていれば、あの子は生贄にならずに済んだのです」と言った。
それですべてを察した白澤は「ああそうか、君もツラかったね」と熱い手で彼女の頬を慰めるように撫でた。
神は万能ではない、日照りの多かったあの時代に全ての土地に平等に雨を降らせるなど出来なかったろう……不謹慎かもしれないが、鬼灯が丁という子供だった時代から知って、その死を悼んだ存在がいるのだということが嬉しかった。
泣きそうな彼女に「ナキサワメちゃんは漢字で書くと泣澤女なんだっけ?おそろいだね」そう言って笑うとナキサワメも微笑んで「そうですね、白澤様」と答えた。
その瞬間から白澤と彼女はとても仲の良い親友の様な存在に成れたのだ。

「この子さあ、もう僕とナキサワメちゃんの子供ってことにしちゃわない? こんなにお世話になってるんだから母親のようなもんだよね」
「なにを仰ってるんですか」

そう答えながら、満更ではないなと考える。
この美しい白い神は、とても優しい、自分の胎を焼く鬼火に対しても、いつも慈しみを抱いている……それは愛する人との子供だからかもしれないけれど。

「この姿の私でないと触らせてくれない癖に」
「……ごめん、この子を宿してから何か他の人に触られるともやもやしちゃって」

今、ナキサワメは鬼灯に化けている、それは白澤が望んだから。
彼は気を遣ってもやもやと言っているがきっとそれは嫌悪感なのだろう、性質のわるい悪阻のようなものだろうか。

「ナキサワメ、八寒地獄から氷が届いた。お前は少し休んで居ろ」

と、そこへ、ピラミッドの石のような氷の塊とイザナキが入ってきた。

「まぁお父様、私はまだ平気ですが」
「駄目だ。こんなに神気を遣って疲労しているではないか」
「そうだよナキサワメちゃん、僕の為に無理しないで、いっぱい休んで」

そうしないと余計に気を遣うと言われれば従わないわけにはいかない。
ナキサワメが名残惜しげに白澤から離れると、その途端、彼の胎の鬼火が一気に熱を増し、阿鼻叫喚を上げながらもがき出した。

「白澤様!」
「よせ!ナキサワメ!!早く彼に氷を!!」

神獣の姿に戻った白澤の身体に氷を寄せると、気持ちいいのだろう、彼はそれに頬ずりをしながら、朦朧とした声を漏らした。

「ああ……ずき、ほぉずき……もう少しだから……もう少しでお前の子を……」

先程まで、自分とナキサワメの子にしようなんて言っていたのに、その事実が彼女の心を氷柱の様に突き刺した。

(……やっぱり、この方はわたしを見ていない)

初めから解かっていたことだけど、この神獣がこの苦しみを耐えているのは全て愛する人を想ってだった。
それなのに鬼灯は、白澤がこんな思いをしているなんて露にも思わず地獄でいつも通り仕事に追われる毎日を送っているのだろう……それを思うとナキサワメは悲しくなった。

「鬼灯殿が、此処に居なくて良かったな」
「……お父様!どうしてそんな!!」

イザナキの言葉に思わず声を荒げるが、父親がグッと歯を食いしばって神獣の胎を見ているのに気付きハッとする。

「実の子を殺めたいなどという想いを……彼にさせなくて済んだ」
「お父様……」

イザナミのこともそうだが、イザナキはカグツチを殺してしまった事を今もずっと後悔している、だから白澤の胎の中の子を、その子が無事に生まれてくるまで見守ろうと覚悟しているのだ。
そうかもしれない、ナキサワメは丁が死んでからずっと今日まで鬼灯を見守ってきた、だから知っている、鬼灯がどれ程白澤を愛しているかを……だから、イザナキが心配することも理解できる……けれど、やはり――

私は……

ナキサワメは駆け出し、宮殿の外にある泉を目指した。
天界特有の虹色をしたこの泉からは現世も地獄も見渡すことができる。
ああ、天国、白澤の住まう世界、ああ地獄だ……母やあの子の暮らす世界、こんなに鮮明に映るのに此処からなんて遠いんだろう。

ナキサワメはその名に正しくさめざめと泣き。
彼女の涙は雨と成り地獄まで降り注いだ。

業火によって地面につく前に蒸発される筈の雨がザァサァと音を鳴らす。

――かなしい

――かなしい

――白の獣

――かなしい

――かなしい

――鬼火の子に身を灼かれ

――それでもその子を生みたいと

――純白を焦がし続ける

――ああ何故、誰も解かってやらぬ

――かなしい

――愛しい

――うつくしき白い神……


その雨が奏でる音、それは大焼処にいる彼女の母のところまで届いた。

「この気配は……」

イザナミは眉を潜めた。
己の家族の身になにかが起こっている……元夫に対しては今は恨みしかないが、もしや我が子達に危険が迫っているのだろうか? それにしては、可笑しな音を立てる雨だけれど……

「白い獣……鬼火の子を生みたい?」

白い獣で思い浮かべるのは桃源郷の主、そして鬼火で思い浮かべるのは……

「貴女にはこの雨の音が違って聞こえるのですか?」

目の前にいる、閻魔大王の第一補佐官、にして常闇の鬼神――鬼灯
八寒地獄から天界のイザナキの元へ極秘で氷が輸出されているとの情報を得た彼が、イザナキの元妻であるイザナミに心当たりがないか訊ねに来ていたのだ。
別れて数千年経っている夫の考えることなんて解からない、暇を持て余したイザナキが巨大カキ氷でも作っているのではないかと、二人冗談を言っていたのに

「ああ……」
「可笑しいですよね、大焼処に降るというのもレアですが……それ以上に不思議な感じがします」

正体の掴めない、切なさというか――

「……鬼灯おぬし最近あの神獣と会ったか?」
「……はい、先週薬の受け取りに行きましたが」
「なにか変ったことはなかったか」
「いえ、特に……ああでも、あの時は珍しく食指が伸びなかったというか、あの偶蹄類を見ても暴力を振るわなかった……今思うと可笑しいですね」

あの時は何とも思わなかったけれど、ひょっとして自分はなにか重大なことを見落としていたのか?

「普通は会った瞬間暴力を振るう方が可笑しいのだがな」

イザナミは一度苦笑すると、ガシッと鬼灯の肩を掴んだ。
いきなりのことに思わずたじろいだ鬼神だったが……

「ところで鬼灯、おぬし寒いのは平気か?」
「……まぁ、多少でしたら耐えきれるかと」
「そうか、ならば」


次に言われた台詞にもっとたじろぐことになった。


「少しの間、氷漬けになってみぬか?」
「はい?」



* * *



鬼灯の子を妊娠してから三か月。
ずっと熱に浮かされてきた白澤の身体はもう限界だった。
それでも神獣だから死にはしないし、お腹の子供の為と言って食欲もないのに無理して食事を摂っている。

それでも少しは熱に慣れたのか、ナキサワメがいなくても人型をとって他人と話せるまでにはなっていた。
今は氷も切らしているので、一人寝台の上で横になっている。

「……ん?ナキサワメちゃん?いいの?さっき休みにいったばかりでしょ?」

ふと、枕元に誰かが立っているのに気付いた。
意識が朦朧としていてよく見えないが、服の色からして鬼灯に変化したナキサワメだろうと判断した。

「あなたは……」
「ナキサワメちゃん?泣いてる?どうしたの……」

掛けられた声が震えているように感じて、心配する白澤。
焦点の合っていなかった目に光が戻って、枕元に立つ者の顔を見詰める。
「やっぱり泣いてる……どうしたの?どっか痛い?苦しいの」
鬼灯の顔で、涙を湛える姿を見て、胸が痛くなった。

「痛いのは貴方でしょう」
「え?」

ひとつ瞬きをすると、涙は流れきり、黒々とした瞳がただ白澤を見下ろすだけだった。
ナキサワメが何を考えているのか解らないが、まあ女の子だし情緒が不安定になることもあるだろうと、とりあえず彼女を落ち着かせる為に会話を続けようと白澤は殊勝にも思った。

「苦しいのも貴方でしょう」
「……心配してくれてるの?ありがとう……でも何度も言ってるでしょ、大丈夫だって」
「どうして!」

顔の両脇に手を下され、一瞬ベッドが軋む音がした。
驚いて目を見開いた白澤の前には自分に覆いかぶさる、黒い影がある。
窓から陽が注し、相手からは自分の顔は丸見えだというのに相手の顔は見えない状況に少し戸惑う。

「ナキサワメちゃん?」
「貴方はどうして平気なんですか?その子に胎を焼かれて、今死ぬほど苦しいんでしょう!?」

ナキサワメの方こそ今更どうしてそんなことを聞くのだろう。
最初に言った筈だ。
何があってもこの子は無事生み落すと……だって、この子この世界に一人しかいない。

「それなのに……どうして貴方は耐えきれるのです!?」

「そんなの、決まってるでしょう」


白澤が笑った瞬間、汗と臓腑の焼ける匂いと共に、ふわり、甘い匂いが香る。

――神様が無茶をする理由なんて、ひとつしかないじゃないか――



「鬼灯の子供だから、だよ」



その時の白澤はこれから親になる人というよりも、愛しい誰かを想う恋人の表情だった。







END