臆病で何をするにも怖がる僕は同時に自分がどうなっても大丈夫だと解ってる
怪我にも暴力にも本能的に怯えるだけ、いずれ元に戻るのだから長い目で見れば僕は何でも平気だ
それを狡いと思う者がいるかもしれないけれど、痛みや苦しみも感じるのだから自分ではそう得したという感はない
でも、やはりいずれ回復するのだと思えば喩えこの身が灼かれていても今だけ耐え忍べば良いのだと思うことができる
お前の子を生むことは苦痛であっても恐怖ではなかった
むしろ悦びですらあった

僕がなによりツライのはお前の中から僕が消えてしまうことだ
心の中、雑踏の紛れていてもいい、空いた場所に転がしておいてくれたら充分だから
どうか僕という存在を消して仕舞わないで欲しい

これからも永遠に
どんな形であれ、お前と関わり続けていきたい




* * *




――日本天界、イザナキの宮殿――
国産みの神、神産みの神とそれに近しいものが住まう清浄な地に訪れた鬼灯は、リンと鈴の鳴ったような音を聞いた。
足元に纏わりついていた霧霞が晴れ、清涼な空気が肺を満たす、天に澄み渡るような水の気、これは水神が舞い降りる予兆だ。

「鬼灯!いらっしゃい!疲れたでしょ?荷物置いたらお風呂入ってらっしゃい!夕食あなたの好きなもの用意するから楽しみにしてなさいね!」
「はぁ」

鬼灯に両親というものはいないが、都会に働きに出ていた息子が久々に帰省した時の母はこんな感じだろうか、という出迎えをしてくるナキサワメ。
これが白澤の前では『ナキサワメちゃんって慎ましくて賢くて美しい素敵な大人の女性だよね』と言わしめる程“お母さん”を抑えているのだから凄いというか何というか……色目を使っていないだけマシなのだが白澤の内縁の夫としては複雑だった。

「あ、そうそう向こうのご両親から御中元が届いてね」
「ご両親て天帝と西王母のことですか?」
「ええ、そうよ?よいお酒だったから食後みんなで頂きましょう」

あれは別に両親でもなんでもない気がするが、わざわざ此方の文化に合わせて贈り物をしてくる律儀なところは好ましい。
しかし中元はそもそも向こうから来た慣習なのだから、むしろ神代から存在するナキサワメ達の方が馴染みの薄いものの気がする。
というか何故中華天国がイザナキ宮殿を婿の実家のように認識しているのだろう、己は地獄の鬼神だというのに……

『この国に生まれた命あるものは全て我が子のようなものだからな』

……ああ、恐らくあの国造神の所為だ。
神様なんていないと思って死んだ鬼灯の脳裏にまるで慈父のような神の言葉が浮かんだ。
今は神が万能ではないと白澤を見てよく理解しているし、あの時救ってくれなかった水神に怨みなどない、鬼雨が生まれる際に大変世話になった神々には信仰心とはまた違った形の好意を感じていた。

「父様は夜にならないと出て来ないから、それまでゆっくりしてて」

イザナキは日々新しい命が生まれるように、祈りを捧げている、自分が生まれるずっと前から妻と交わした最後の“約束”を一日も絶やさず果たしているのだ。
ナキサワメは両親の復縁を願っているが、イザナミが殺しイザナキが生む永久の因果はもしかしたら二人だけしか理解できない絆の形なのかもしれない……鬼灯と白澤が憎しみ合い愛し合ったように。

「はい、お言葉に甘えて」


己が故郷は地獄、己が従うのは名付け親のみだと思っている。
けれど、ではこの感情はなんなのだろうか?

「夕食前に、少し時間をくださいね」

ナキサワメの表情が少し堅くなったと気付きながら黙って頷く、最初から彼女の話を聞くために訪れたのだ。

「ありがとうございます」

頭を下げ、奥へ引っ込んでいく。
いつの間にか控えていた彼女の眷属達が鬼灯の荷物を持ち、鬼灯を湯殿へと案内する、皆自分と同じ生贄にされた子供達だ。
優しい彼女のことだからこの子達の死を悼み、癒し、大切に育ててきたのだろう、しかし穏やかに語りかけるその瞳の奥に同じ“寂しさ”を残している。
ナキサワメや、此処に住まう神々はこの子達から“寂しい”を奪ってしまわなかったのだろう、それを素直に尊いと感じるのは、きっと自分も子どもを得たからだと思う。

「ここからは一人で大丈夫ですよ」

と、言うと一礼して湯殿の入口に立たれた。
落ち着かないが客人にもしものことがあってはいけないという配慮なので口を噤む、たしか白澤も此処の住人は過保護だと言っていた。

(あの人への過保護は、私とは意味合いが違うでしょうが……)

大きな浴槽の中、なんの抵抗もなくこの宮殿に呼び出された自分を省みて溜息を吐く鬼灯。
ナキサワメへの生贄に捧げられた己だが、鬼となり黄泉で生きているうちに天国の神々など遠い存在となっていた。
その距離が縮まったのは白澤の妊娠がきっかけだ。
独りで生もうとしていた彼を保護し最良の環境で出産させてくれたイザナキへは感謝してもしきれない、胎児に灼かれ苦しんでいた白澤にずっと清涼な水の気を送ってくれていたナキサワメにも感謝している。
生まれてきた子である鬼雨を本当に可愛がってくれていることも彼らへの好感度を上げる一因となっていた。

「いいお湯でした」

浴室を出ると数十分前に脱いだ着物が洗濯乾燥され畳まれていた。
清潔なそれに袖を通し髪を乾かし、ナキサワメの眷属の待ちかまえている廊下へ出る。

「こちらへ、ナキサワメ様がお待ちですよ」

そう言われ露地へと案内される、その途中に泉があり、泉の底に地獄の大熱処が映されていた。
イザナミのいる阿鼻叫喚地獄、鬼灯を生贄にした村人たちが括り付けられた柱も見える、あれを燃やす焔は己の怨みと相違ないだろう。

「鬼灯」

建物の中へ入るとニコニコと笑うナキサワメ、促されるままその正面に座る。
すると、目の前にスッとコップが差しだされた。

「お茶を点てても良かったのだけど風呂上りなら冷たいお茶の方がいいと思って」
「風呂上りなら冷酒の方が好みですがね」
「それは食後のお楽しみよ」
「はい、今は大人しく貴方の話を聞くことにしましょう」

乾いた喉に冷茶を一気に流し込む、ナキサワメの「おかわりは?」という言葉に首を横に振った。
白澤や鬼雨が呼ばれなかったということは彼女の話は面倒なものに違いない、さっさと終わらせてしまいたかった。

「そうですね……では、単刀直入に訊ねます」
「はい」

彼女の視線が真っ直ぐ鬼灯の瞳へ注がれている。

「貴方、私の眷属となる気はありませんか?」
「……」

今更なにを言っているんだと思う、というかそんな答えの解かりきったことを聞く為にわざわざ呼び出されたのか。

「何故そのようなことを訊くのですか?」

この台詞にこの態度では、遠回しにNOと言っているようなものだ。
ナキサワメは一度大きく息を吸うと、思い切ったように語り出した。

「鬼灯、貴方は子種の持つ体質を知っていますよね」
「はい、鬼火と人のMIXである私の種子は受精した直後から鬼火となり母胎を灼き続けるのでしょう?」

だから、桁外れの再生力を持つ白澤しか妊娠は不可能なのだと説明された。
そうでなくても鬼灯は白澤以外との子を作りたくはないと思っていたけれど、それを今更確認してどうするのだ。

「はい、しかし貴方が私の眷属となれば鬼火と共に水神の属性も備わります」
「ッ!?」
「そうすれば貴方の子の焔も中和されるでしょう」

つまり、妊娠中に母体へ与えられるダメージも無くなるということか、ナキサワメの顔を見ると大きく頷かれる。

「私の眷属に成ったからといって私に仕える必要はないし、閻魔殿の第一補佐官を辞める必要もありません……今までと何一つ変わらず……いえ、貴方には永遠の命が保証されますね」

鬼灯は息を飲んだ。
永遠の命を得る――白澤と同じ刻の上を歩ける――それが他のどれよりも重要に聞こえてしまった己の耳を呪いたかった。

「白澤様は言いました」
「何を」
「鬼灯の子なら何人だって生んでみせると」

刹那、鬼灯の胸の中で鬼火が躍りだす。
ああこれは歓喜なのだと鬼灯は切なく目を伏せる、時にこの鬼火は心よりも正直に己の心情を表してしまう。

「少しは見守る方の気持ちを考えて欲しいです」
「ナキサワメさん?」

美しい水神の顔が苦々しげに歪んだ。

「……鬼灯、何故私の父イザナキやニニギが白澤様に協力的だったのだと思いますか?」
「それは、カグツチを生み焼死したイザナミ様や火中出産したサクヤ姫とあの獣を重ねて見たからでしょ」
「ええ、そうです……あの二方にとって出産と炎の組み合わせは今もトラウマなのです」

サクヤの方は子どもの頃の鬼灯が起こし演出だったけれど、それでも火の中で妻が出産しているという恐怖はニニギの心に深く刻まれたろう。

「国を産んだ父は勿論、ニニギも芦原の主として人の営みを見守ってきました……何千何万年と他人の起こす争いも天の災いも数知れず見てきたのです」
「……」
「そんな神の心に傷を負わせるもの……最愛の人が灼かれる光景など……私は貴方に見せたくありません!」

鬼灯が白澤の妊娠を知った時は妊娠中期で白澤の容態も安定してきた頃だ。
だからまだ良かった、妊娠初期の苦しむ姿を見ずに済んだのだから、ナキサワメはあれから数十年経った今でも夢見て魘されることがある。

「現世の作家が書いた地獄変という話は、たしか絵師が地獄絵図を描く為に愛娘を焼くのですっけ……あの絵師はきっと現世にいながら地獄よりも本物の地獄を見たのでしょう」

親しい者が眼前で焼かれて逝くのだから……そう考えると、鬼灯があの村人達へ科した罰は相当なものに違いない。

「白澤様はきっと今のままの貴方でいいと言うでしょう……貴方の鬼火ごと愛しているのですから」

己の体を灼き続ける胎児を普通の子となんら変わらないと、この子は生まれてくる為に必死で頑張っているだけなのだと言った。
のたうちまわり意識を朦朧とさせながら何があっても堕胎だけはさせないでくれと、訴えられた。
そして何度も何度も自分は幸せなのだと、鬼灯の子を生めることが至福なのだと笑った白澤を思い出す。

「私も無理強いするつもりはありません……あなたは鬼火と人の混ざって生まれた鬼、その事実を心から祝福しています」

自分に捧げられる筈だった魂が変質したことで最初は心配でたまらなかったけれど黄泉に連れられ居場所を得た鬼灯はとても充実した生を送っていた。
数千年の年月をかけ己の努力によって鬼神へと上り詰めた彼の誇りを尊重したい、だから今更水神の眷属となれなどと命じたりはしない。

「天国が貴方達にとって地獄のようにはなれない事も、私達が貴方にとって閻魔殿のようになれないことも解ってます」

白澤のようになることは望んでいない、あの人とは想いの形が違うから……自分が彼に対し抱く感情は、もっと世界中にありふれている。
ナキサワメはフッと肩の力を抜いた。
鬼灯がどのような答えを出そうとも、これだけは今日伝えてしまうつもりだった。

「ただ私は……私が、貴方を息子のように想っていたいのです」

それに鬼灯が驚いているのを見てナキサワメは息を吐くように笑う。
神に捧げられた子はその神にとって我が子に近い存在となる、今までそう接してきたけれど、そう言葉にしたのは初めてだ。

(……丁……)

そう呼べば怒られるから愛眼差しで呼び掛ける、この子が幼い頃からずっと願ってきた。
かつて雨を乞うて死んだ子に、自由に雨を降らせて欲しい。

「はぁ……」

大きな溜息を吐かれ、笑っていたナキサワメの肩が震えた。
格好つけて言ってみたものの、これを拒絶されたら泣く、日本全土が豪雨に見舞われる。

「名前に“澤”がつく方は皆さんそうなのでしょうか」
「え?」

しかし、恐る恐る見上げた鬼灯の顔には微笑が浮かんでいた。

「……私に親と呼べる存在がいるとしたら閻魔大王ですし、家族と言われ一番に思い浮かべるのは不本意ながらあの神獣と我が子です」
「そりゃそうでしょうね……って、ふ、不本意なのですか?」
「……いえ、私の方があの神獣を幸せにしたかったのに、私ばかりが幸せというのが不本意なのです」
「貴方が幸せなら白澤様も幸せだと思いますが……あの方がずっと何を望んでいたか忘れていないですよね」
「ええ」

“鬼灯に幸せになってもらいたい”その一心であの神獣がしてきたこと、きっとまだほんの一部しか知らないけれど――

「貴方の幸せが、白澤様にとって最高の報いなのですよ?」
「ええ」

こんな風に甘やかされてよいのだろうか、と本当に思う。
愛され過ぎて苦しいなんて、恋に溺れた鬼なんて笑い話にもならないというのに、それでも――

「ナキサワメさん」
「はい」

あの神獣さえいれば良いと思っていたのに、血の繋がった子を得てしまった己は随分強欲を育ててしまっているようだ。

「眷属の件、少し考えさせて下さい」

答えは鬼雨が独り立ちした後、白澤の体が完全に回復した後にでも出そう。
共に生きる為に決断するのだから、今度は二人で考えて決めよう。

それにナキサワメは笑って応えた。

「ええ、いつまででも待ちます」


時間はたっぷりあるのだから、白澤と共にゆっくり考えればいい。




* * *




僕は時々夢を見るんだ
もしもお前の子を生める存在が僕以外にいたら
僕はどうしていたんだろう

僕にとっての僕はどんな存在だったのだろう

解からない、けど

お前にとっての僕は……きっと――


「ねえ、白澤さん……貴方に相談したいことがあるのですが」


もう、必要ない存在なのかもしれないね





END