我が宿に咲ける撫子-壱- 春休みを目前に控えた三月上旬、部活や生活態度によって成績は多少免除され無事進級できる事が決まった火神大我は午後の授業の時間を他のクラスメイトと同じように受けていた。 こんな良い天気の日に真面目に授業を受けるなんて馬鹿らしいですよね、とは自らの影の台詞。そう言いつつ実際サボったことはないのでアレは彼なりの軽口だったのだろう(授業が黒子の好きな古典だったからかもしれないが)とぼんやり考えた。 教壇に立ち朗読する還暦を過ぎた教師の声は祖父母と暮らした覚えのない火神の耳にとても穏やかに馴染んでいく、穏やか過ぎて眠気まで誘ってくるのはもう仕方がないのだと欠伸を噛み殺す。 日本の歌は緻密で繊細だと教えてくれたのはアメリカにいる頃近所に住んでいた日本びいきな爺さんだった。 “儚きは美しい”“変わりゆく君を、変わらず想う”なんて、永遠の幸せを望んでいる最中でもその言葉を心情として理解出来るのだと、白眉に隠された鳶色の瞳を細めて笑った。 ただ、あんなに言葉の発展した国に住んでいるのに何故、日本人は言葉でなく空気で伝える術を好むのかと首を傾げていた。空気を読むのが上手い分、ボディランゲージは発展しなかったとか、結局褒めてんのか貶してんのか解からなかったけど…… ――なでしこは漢字で撫でし子と書いて「撫でて慈しむ対象」のことを表しているんですよ――…… 夢と現の間で聞いた優しい響き、この先生の声とあの爺さんの先生の声は何となく似ている。国や言語は違っても落ち着いた老人の声というのは同じ効果が得られるものなのかも知れない。 なでしこ、撫子……そういえば、どんな花なのか知らないな でも、撫でて慈しむ対象ならは知っている まだ撫でる手を想像できないけど…… それは此処にはいない誰かの手…… 風に揺れるカーテンがちらちらと目に映る、火神は促されるようにそっと瞼を下した。 結局、HRの時間も寝過ごし部活が始まるギリギリの時間になって黒子から起こされてしまった。どうせならもっと早く起こして欲しかったと急いで部室へ向かうと、バスケ部の部室の前に人だかりが出来ていた。 「どうしたんすか?」 「火神か……折角来たところワリィが今日の部活は中止だ」 答えてくれたのはキャプテンの日向、隣に黒子もいるのにやはり気付かない。 「え?なんでですか」 「今日はワックス掛けがあるから部活は中止になったのよ」 「木吉に連絡頼んだんだけど忘れてたみたいでなー」 「いやスマンスマン」 黒子が続けて問うと相田、伊月、木吉が答えてくれた、どうやらこの三人は黒子の存在に気付いていたようだ。 「そうですか」 「ま、いい機会だから皆よく休んでね!!」 でも明日の練習はいつもの十倍だからね! 誠凛名物の鬼カントクは可愛らしい顔で怖ろしいことを言い放ちバスケ部員達を凍りつかせる。一年メンバーなんて今から顔を青くさせている者もいた。 「なんだ今日は練習できないのかよ」 そんな中、見るからにガックリと項垂れる火神に、相棒である黒子はさして残念そうでもなく告げる。 「僕はそろそろ新しいバッシュを買いに行こうと思っていたので丁度良かったです」 新しいバッシュ……そういえば自分のバッシュももうそろそろ履き潰しそうだった。いざという時にまた都合よく同じバッシュが手に入るとは限らないので予備も買っておいたほうがいいかもしれない。 そう考えた火神は黒子の肩をポンと叩いて、 「お、いいなソレ、じゃあ俺も……」 一緒に行こう、と口にする前に何故か頭に過ぎった黄色と桃色。 「あーー」 「どうしました?」 「いや、なんでもねえ……気を付けて行けよ」 訝しむ黒子に「人にぶつかんないようにな」と面倒見のいい笑顔を見せた。黒子は少々ムッとしながら「ぶつかりませんよ」と手を払い。 「一緒に行くって言うのかと思いました」 「そう思ったんだけどよ、今月は金欠なんだよ」 無表情で首を傾げられた。バスケ関連の物なら店に行って商品を見ているだけで充分楽しめるタイプの人間なのに珍しいとでも思っているんだろう、自分でもそう思う。 「そうですか……まあアレだけ食べてれば……」 だが黒子は深く追求することなく納得した。普段から火神の食生活を見ているのでエンゲル係数が酷いことになっていると想像が容易いんだろう。 「おう、カントク命令だし今日は真っ直ぐ帰って休むことにするわ」 内心ホッとしながら再度今日は一緒には行かない旨を伝えると、自ら影と称する彼は光を気遣うように苦笑した。 「そうしてください。君はオーバーワークしがちですから……まったく黄瀬くんでもないのに」 黄瀬、と聞き一瞬ギクリと肩が揺れる。 事実、笑って無理を隠すあの負けず嫌いには火神も心配したり呆れたりしてばかりだ。先輩の言う事も碌に聞かない彼を大人しくさせられるのは色黒のライバルくらいなものだろう。 「カントクが注意しても聞かないんですから……桃井さんみたいなマネージャーがついててくれたら君も少しは」 今度は桃井か!と内心ギクギクしっぱなしの火神。 実際、しつこく面倒見の良い彼女がいてオーバーワークなんてしようものなら強引に休まされること間違いない、四六時中監視付きでだ。彼女に逆らえる人間なんて色黒の幼馴染くらいなものだろう。 「うん、じゃあ、俺帰るな」 「……?はい、また明日」 喋りながら話していた二人は校門の前で二手に分かれた。このまま黒子は街へバッシュを買いに、火神は家にまっすぐ帰る。 黒子がチームメイトのことはともかく桃井の話までするのは珍しいので、ひょっとしたら淋しいのかと思ったが、まあそうだとしたら青峰を誘うだろう。 (あの中じゃ一番ヒマ人だもんな) 関東に残ったキセキの世代メンバーの中で学業もモデル業もマネージャー業も情報収集もしていないのはアイツだけだ。休日はバスケかゲームかグラビアかAVを観て過ぎていくという彼に付き合える奴もそういない。 (そう考えると黄瀬と桃井ってスゲーな) あの暴君相手になんて我慢強い。たまには褒めてやらなきゃ罰が当たるぜ?と太陽の輝く青い空を仰いだ。 * * * チャイムを押さずドアノブを捻ると鍵は閉まっていなかった。アメリカ帰りの火神からすると物騒に感じるが生まれた時から日本で家族と一緒に暮らしていた二人にしてみれば。 「ただいま」 言いながらリビングの扉を開けた瞬間、なにやらいい匂いがする黄瀬と桃井が振り返り「おかえり」と満面の笑みを見せた。 左右から伸びてきた腕に火神は学校指定の鞄とエナメルバッグを預ける。黄瀬が壁際のコート掛けに鞄を掛けて桃井がエナメルバックの中を漁った。桃井は汚れものの洗濯をしてくれたり必要なものを補充してくれるから助かる。バッシュやボールの手入れは自分でやっているけれど他のことはおざなりにしがちなので 「あれ?ジャージ汚れてない……部活なかったの?」 「ああ体育館がワックス掛けなんだと」 「だから今日早かったんスねー」 火神がいない間ヒマなせいか帰ってくると何かと世話を焼きたがる二人はすこし鬱陶しいけど同じくらい嬉しいと感じる。 「お茶淹れるから火神っちは着替えてくるっスよ」 「ああ、サンキューな」 「そういえばさっき黒子がお前らの話してたぜ」 「え?嘘!テツくんなんて?」 「黄瀬はオーバーワークしがちって話、と桃井みたいなのがいれば練習量も調整してくれる……だったか」 正直な内容は教えたくないので適当に答えた。そもそも黒子の話題に上ったのはこの二人ではない“こっちの世界の黄瀬と桃井”だ。 そう言うと目の前の二人がこの世界の者ではないように聞こえるが本当にそうなのだ。火神も最初は信じられなかったけど、この黄瀬と桃井がいる前でこっちの黄瀬と桃井と電話で話せたのだから本当にそうなんだろう。 違う世界から来たという桃井の桃色の髪にはゆるくパーマが掛かっていて眼鏡をしているし、黄瀬は今はヘアピンで留めているが前髪が顔の半分 が隠れる程の長さで右側にピアスをしていて左耳のピアスホールは塞がってしまっている、この二人とこっちの二人が並んでいる姿は見ていないが見分けるのはきっと簡単だ。 「今日はなにして過ごしていたんだ」 着替え終えた火神がテーブルにつくと紅茶と茶菓子(既製品)が既に置いてあった。 「えっと午前中はずっと内職してたっすよーお昼は昨日の残りのカレー食べたっス」 「掃除も毎日やってるとすぐ終わるのよね、かがみん意外と散らかさないし」 「内職……別にしなくていいって言ってるのに」 「いや!住まわせてもらってる以上、生活費はちゃんと払うっスよ!」 「それに他にすることなくて暇だから」 二人が来たのはバレンタインの日だったからもう一月は経っている。黄瀬と桃井がいる生活にももう慣れた。パラレルワールドから来たというのにあまり違和感を覚えないのは順応性が高いからか。とりあえず火神の生活においてレギュラーの座をもぎ取っていた。 火神が学校に行っている間ずっと、家事や内職をしながらバスケの勉強をしているというが、半日以上は二人きりで会話しているから喋り足りないこともなく、火神が疲れていると黙って労るように接してくるし邪魔にはならない。 でも…… 「そういえば、体育のとき同じ班の小野と小野と小野が話してたんだけどよ」 「え?同じ班に小野くんが三人もいるんスか?」 「出席番号順だからな」 カ行最初の火神(かがみ)の前はア行最後の小野(おの)だった。 「同じクラスに三人も小野がいることが驚きっス」 と黄瀬が苦笑していると、その隣に座っていた桃井が食いつき気味で顔を目の前に出してくる。 「じゃ、じゃあひょっとしてテツくんとも同じ班だったりするの?」 黒子もカ行だから出席番号は近い筈だと踏んだのだ、火神が「ああ」と頷くと仄かに顔を紅潮させ「そっか、いいなぁー」と呟く。大方自分が黒子と同じ班になった時のことを夢想しているのだろう、手を組み上の空になっていた。 「マジいいっスねー小野くん、オレも同じクラスたら火神っちや黒子っちと同じ班になれたんスかねー……」 と、桃井に触発されたのか少し切なそうに黄瀬が呟く。 「いや、俺と黒子の間に神谷って奴がいるからお前が入ってくると黒子が違う班になっちまうぜ」 「そ、それは駄目っス!ていうか火神っちと黒子っちの間に割り込むとか神谷くん許せない!そこに入っていいの俺だけっス!!」 「お前なに言ってんだ……ってか同じクラスだったら、とか海常を蹴って桐皇に入学したお前が言うと洒落にならねえよ!!」 そう火神が叫ぶと部屋の空気が少し変わる。 「……」 まだ理由を話してもらっていないけれど、ここではない別の世界では黄瀬が桐皇、桃井が誠凛の生徒なんだと聞いている、この桃井が火神を「かがみん」とあだ名で呼ぶのはチームメイトだからだ。 「で?小野くんがどうかしたの?」 「えっ……あーー小野Aが急に神隠しの話しだして……それで思ったんだけど」 小野Aってなんだ。なら後の小野は小野Bと小野Cか、クラスメイトなんだから名前で呼んでやれと思ったが微妙な空気のためツッコミを入れづらい。 「お前ら元いた世界じゃ行方不明ってことになってんじゃねえの?」 ついに二人は固唾を飲んだように黙ってしまった。まるで「ああ遂にこの時がきたのか」と言うような表情で苦笑する。 火神はずっと疑問に思っていた。黄瀬と桃井が何故自分達の世界へ帰ろうと必死にならないのか、普通だったら不安だろうし家族や友達が恋しく想う筈だ。 でも、黄瀬も桃井もあまり不安そうにすることもなく楽しそうに火神の部屋に住まわっている。ひょっとして元の世界に戻りたくない理由があるんじゃないかと火神は思っていた。 「別にお前らのこと迷惑なんて思ってねえけどよ、ずっとこっちに居るわけにもいかねえだろ」 「……解かってるよ……私達が戻らないとみんな心配するって」 「そうスね……そろそろ俺らの世界に戻る方法を考えないと」 「俺も協力するから頑張ろうぜ?」 ふと、もしこの二人が戻ってしまったらきっと自分は寂しいだろうと思った火神だったが、一月くらいしか一緒にいない自分が淋しいと感じるのだから元の世界の家族や友達はもっと寂しい想いをしているだろうと簡単に想像できる。早く帰してやらないと、特に幼馴染の桃井と自分に懐いていた黄瀬を一気に失った青峰のことが心配だ。 (コイツらは自分がいなくなって周りがどんだけ困るかって自覚なさそうだけど) こっちの世界じゃあんだけ重宝されてる諜報部員で、頼れるエースなのに、きっと異世界では違うんだろうな。誠凛のカントクは情報に頼りきる戦法を好まないだろうし、桐皇は個人技重視のチームだ。 桃井は桐皇だからこそ輝けて、黄瀬は海常だからこそ必要とされている、どちらが良いかなんて一概には言えないけれど……どちらの世界がより二人を大切にしているかといえば間違いなく此方の世界だ。 「よく考えたら早く帰らないと、きっと黒子っちが泣いてるっスよ、桃っち!」 「そ、そうよね!テツくんのことだから必死に私達を探してくれてるよね!うん!」 そんな中で変わらず信頼されてる我が相方を誇らしく感じながら「黒子だけじゃねえだろ」と内心溜息をついた。まあ黒子の為にヤル気を出している黄瀬と桃井に水を注すつもりはない。 「テツくん本当やさしいから」 「うん、黒子っち優しいっスもんね」 (だから!別にアイツが特別優しいからじゃなくて!!) 手放しで褒められている我が相方は本当に誇らしいが、もどかしい、せめて向こうにいる自分からも同じくらい心配されていると思ってほしい、そう切実に願う。 「……はぁ……じゃあ、茶が終わったらお前らが飛ばされてきた所まで手がかり探しに行くぞ」 「うん!久しぶりに外出るけど大丈夫かなぁ」 「知り合いに見つかんないように変装していかなきゃっスね、火神っち服とキャップ貸して下さいっすー」 「はいよー」 たしか桐皇高近くのストバスコートの前で事故ったのがキッカケと言っていた。桐皇の体育館へ行って此処が自分達の世界とは違うと気付いた二人は誰にも何も言わずそのまま逃げるように火神の部屋まで来たのだと言う。桐皇には青峰もいる筈なのに頼ることはしなかったと聞き不思議に思ったけど、その理由もやはり聞けなかった。 * * * ところで今日は秀徳バスケ部も休みだった。そして今日も今日とて秀徳の仲良し一年コンビ(こう言ったら緑間だけではなく高尾まで「別に仲良くなったわけじゃねー」と否定するが)は一緒に帰っていた。 今朝のおは朝占いで蟹座は徒歩移動が吉!と言われたので高尾はチャリアカーを漕がなくて済んでいる。そんなわけで高尾は大変機嫌がいい、おは朝様に万歳なのだよ。 「ああ、わかった……場所はお前に任せるのだよ、桃井」 腕を頭の後ろで組んで上機嫌で歩く高尾の後ろを緑間は電話しながら歩いている。電話の相手がなにを喋っているか解からないが緑間の言葉からだいたいの内容は想像できた。 春休みに赤司と紫原が帰省してくるので久しぶりにキセキの世代で集まろうとしているようだ。幹事は副部長だった緑間とマネージャーの桃井。 電話の向こうに桃井の弾けた声が聞こえる。ああ凄く嬉しいんだろうな、と桃色の彼女の笑顔を思い描き高尾は(顔色には出さないが緑間も)微笑ましく感じた。 そんな時――緑間が障害物にぶつからないように鷹の目をフル活用していたから気づいた。 (え?あれって火神じゃん珍しい……あ、そっか黒子が今日部活休みって言ってたもんなーー) 道路を挟んで向かい側の道に火色の髪の男を見つけ、先程スポーツショップで会った黒子の言葉を思い出す。 あの時、黒子は黄瀬と一緒だったので火神も一緒じゃないかと聞けば、金欠なので家で大人しく休んで居ると言っていた筈だが (友達?女の子も連れて遊び行ってんじゃん、アイツも隅に置けないな) キャップを被った火神と同じくらいの身長の男とフードを被ったスタイルの良い女に挟まれて歩く火神は二人とかなり親しそうだ。黒子や部活仲間にバレるとやっかいだから黙っているのか、それなら気付かない振りをしてやろう、と目を逸らした瞬間。 強い風が吹いた。 (え?) それは一瞬だったけど、キャップとフードがふわりと浮きあがり、二人の男女の顔が見えた。 (なんで……?) 思わず立ち尽くす高尾を不審に思った緑間はまだ途中だった会話を強引に区切り、電話を切った。 「どうした?急に立ち止まって」 「え?あ……ごめん、なんでもないけど」 黄瀬はさっき黒子と一緒にいた。 桃井は今まで緑間と通話をしていた。 だからあれは何かの見間違えだ―― (鷹の目を持った俺が見間違える?そんなことって……) こうしている間に火神達は角を曲がって緑間たちから見えない所に行ってしまった。 「高尾?」 「ねえ真ちゃん、黄瀬くんと桃井さんって兄弟いたっけ?」 「は?」 「ごめん、変なこと訊いた」 というか緑間に聞くまでもなく本人達に聞いて知っている。黄瀬には姉が二人いるが男兄弟はいない、桃井は一人っ子だ。 「どうしたのだよ高尾……」 珍しく気遣いを見せる緑間に高尾は笑って「なんでもない」と顔の前で手を振った。 今のことを緑間にも言おうか、でも…… (……なんか、まだ知られちゃいけないことのような気がする) そして大きな事件に発展してしまいそうな気がする。 ――こういう時の高尾の予感は良く当たるのだった―― つづく |