とある春の日の早朝。

(本日休業、外は快晴、風も穏やか、うん絶好の蟲日和だ!)

馴染みの蟲師が聞けば「なんだそれは」とツッコミが入るようなことを考えながら化野は満足気に頷いていた。
ああ今日は何をしよう、商人から買い取った蟲関連の曰く憑き小物でも並べて眺めていようか、それとも知り合いの蟲師が置いていった蟲関連の書籍でも読んで過ごすか、折角の休みなのだから買い物へ出かけるのもいいかもしれない、勿論蟲関連の物をだ。それとも誰でもいいから蟲師が遊びに来て旅の話でもしていってくれないかな、今日は日がな一日自由に出来るのだから。時に紛い物を掴まされる事もあるけれど彼らの話は聞いていて飽きない。蟲を見れない自分でも蟲を近くに感じられる。
と、こんなふうに化野は久々に訪れた休日に心を躍らせていたのだった。

すると玄関の方からトトトトトトと小さな足跡が二つ分聞こえて来た。化野の家は倉庫や薬品庫など危険な場所を除けば村の子ども達が自由に出入り出来るようにしている。馴染みの蟲師が聞けば「物騒だな」とツッコミが入るようなことを平気で許している男だった。

「せんせい!」
「たいへんだ!」

寝室の襖を開け、中の化野に向かって叫んだのは村で一番元気な男の子と女の子。その二人が顔を真っ赤にさせて訴えて来た事は

「クマのお兄ちゃんが山ん中で倒れてた!!」

休日終了のお知らせである。



* * *



「よう、暫くぶりだったな」
「……」


男が目を覚まし、最初に目に写り込んで来たのは村医者の柔和な笑顔だった。

「気分はどうだい?クマド」
「アンタは……」

クマドと呼ばれた男は状況を察して思わず顔を歪めた。どうやら自分はこの村の近くで行き倒れていたらしい。

「迷惑をかけたな」
「そんなこと聞いてるんじゃないんだが」

一方、休みを返上して看病にあたった化野は強気だった。これでも腕の立つ医者なのでクマドの体の具合は見てとれたが、本人への戒めとして口に出させる。

「少し、ダルい……」

「だろうね」

行き倒れた彼を診るのは一体これで何度目だろう。子供達が「クマのお兄ちゃん」と親しみを込めて呼ぶくらいには常連の患者であった。ちなみに「クマちゃん」と呼んでそれを定着させたのはとある縁で逢った硯職人のたがねだ。最初に彼を拾って化野の所に運んだのも彼女だった。

クマドには学習能力が無いというか、自分のことには鈍感なのか、この歳になって己の限界を見誤るところがある。慎重で冷静なものが多い蟲師の中では珍しい類かと思う。まぁ友人のギンコも厄介事に首を突っ込んだり感情に身を任せて無茶をしたりするから一概にそうとは言えないのかもしれないが。

「待ってな今、飯の準備をしてくるから」
「……食欲は」
「なくても少しは腹に入れといた方がいい、薬を出すから」
「……」
「それまで寝てろ……いいね?」

有無を言わせず言い付けると化野は台所へ向かう為に立ち上がった。あの症状はただの疲労だから、きっと次に目覚める頃には食事が出来るくらいに回復している。それまで大人しく寝ていればいいが、と思ったが自分と入れ違いに部屋に入った子供達が見張っていてくれるので杞憂に終わるだろう。クマドはあれでなかなか子供に好かれる。

「あの子達にちゃんと礼を言っているかな?」

多分あの子供達はクマドを見つけた時のことを自慢げに話すだろうから、クマドも面白くなさそうな顔をして礼を言うのだろう。皆それが面白くて堪らないというのに。クスクスと笑いながら米を一掬い鍋に掛ける。火が通る間に野菜を刻んで、昨日の残りの煮物も温めるかと忙しなく動いた。
とんだ休日だと思いながら悪くはない、化野は蟲も好きだが蟲師も好きだ。そして彼のように世話の掛かる人間も好きだった。

(ギンコやたがねさんは少ししっかりしすぎて俺が世話をやかれる方だしな)

毎回ギンコに厄介事を頼むのは自分だし、自業自得とはいえ出逢いがアレだった所為かたがねからは小言が多い。その点クマドは不養生で独りでなんでもできるくせにどこか頼りないし、子供達が毎回別れ際になると不安がるくらい儚い雰囲気を纏っている。人を遠ざけるように生きてきた様だが別に孤独を好んでいる様には見えない、だからクマドには医者としても個人としてもここぞとばかりに面倒が見れるのだった。
料理が出来ると化野はお粥と煮物と急須と湯呑を盆に乗せ彼のいる部屋まで戻った、薬用の水は枕元に置いてある。

(……これはどういう状況だ?)

襖を開けると、そこは雪国……のような冷たい空気が広がっていた。クマドはいつも通り無表情でぼーっとしているが、その両端に座っている幼い男女がギンギンと睨み合っていた。今朝方仲良く我が家に(勝手に)入ってきたというのに、いったいこの小一時間に何があったというのだ。

「クマド、食事が出来たぞ」
「あ、どうも」

とりあえず病人に食事を与えようと声をかけると無愛想に返事がかえってきた。いつものことなのでそれはいい。

「……食べさせてやれば?」
「は?」

男の子の方がそんなことを言うので、つい足を止めてしまった。見れば女の子に向かって言った台詞のようで化野は静かに息を吐いた。よかった、自分に言ったんじゃなかった、と、安心しているとクマドから視線を感じバツが悪くなった。いや違うぞ?俺も医者だし別にお前に食事を食べさせてやるのがイヤなんじゃないからな?ただこの子達の前だとやりにくいというか……ていうかお前だって食べさせてもらいたいとか思わないだろ?
顔には笑みを湛えながら内心で百面相している化野を尻目に男の子と女の子の攻防は尚続いた。

「なんでそんなこと言うの?お兄ちゃん達も困ってるじゃん」

流石女の子、空気が読める。

「だってお前クマの兄ちゃんの看病したいんでしょ?」
「……弱ってる人を助けたいって思うのは当たり前じゃない、なんでそんな言い方するのよ」

ああ……さてはコイツ、嫉妬しているな、と男の子を見てピーンときた化野。一方、弱っている人呼ばわりされたクマドはそんなこと意に介さず化野の持ってきた盆をただ見詰めていた。腹が減っているのか……。化野がそっと盆を渡すとクマドは無言で手を合わせ食べ始めた。介助は一切必要ない様子だ。その後、クマドが完食し薬を飲み終わるまで、子供達の静かな攻防は続いていた。ちなみに化野は犬も食わない喧嘩だと無視を決め込んでいる。
男の子が「クマの兄ちゃんばかりじゃなくてボクにも構ってよ」と一言いえば解決する問題だ。空気は寒いがほっておこう。しかし二人の喧嘩はなかなか終わらなかった。そして、ついに

「もういい!アンタなんか知らない!!」

そう言って女の子は出て行ってしまった。

「……」
「いいのかい?追いかけなくて」

男の子はギュッと手を握って黙り込んでいる。生憎、小さな頃から蟲が好き過ぎて恋人が出来てもすぐに愛想をつかされてきた化野に色恋関係の助言は難しい、そしてそれはクマドもだろう。落ち着いた様子でお茶を飲んでいるクマドを横目でジッと見ていると。コクリ、丁度良い温度のお茶を喉に通したクマドが、初めて男の子の方へ顔を向け、口を開いた。

「昨日……この村の周りに流れモノの蟲が漂っていた」
「え?」
「音がするものに近づかない蟲だから、二人以上で歩いていたり会話をしていれば安全だが……」

あの子は親や友達と喧嘩するとよく森の入口にある祠の後ろで丸くなっている。そうやって一人で静かに心を落ち着かせるのだ。それを思い出したのか男の子の顔が蒼白に染まっていった。

「せ、先生!!」
「はいはい、行ってらっしゃい」

ついでに「言ってらっしゃい」と思いながら、彼を見送った。ドタドタドタ!朝よりも大きな足音を立てて廊下を走っていく彼はさしずめ彼女の騎士だろうか、そう訊ねるとクマドは「さぁな」と二杯目の茶に口をつけた。

「だいたい騎士っていうのはなんだ?」
「ああ、異国の方の職業で、姫とか上流階級の人間を護る武士みたいなもんらしいぞ」

クマドが興味を示したことが嬉しくてつい頬を緩めてしまう。感情に乏しい彼の反応はなんであれ化野を嬉しくさせるのだ。

「アンタ蟲と医術以外のことにも詳しいんだな」
「はは、褒めても治療費はまけてやらないぞ」

まぁ蟲の話を聞かせてくれるなら、別だけど――いや、クマドの話に限っては素直に楽しめないことも多い、他の人間は知らない珍しい蟲を関わったということは、それだけ危険な道を通っているということだから。恐らく自分はギンコが禁種の蟲を封じるお嬢さんへ感じる焦燥と似たものを彼に抱いている。化野はクマドのことが心配で遣る瀬無くて、腹立たしいのだ。

「はぁ……」

しかし、そんなことを言っても仕方ない、今はそれよりも聞かなければならない事があるだろう。なぁクマド?

「さっき言っていた流れ者の蟲のことだが、お前どうして流れてきたって知ってるんだ?」
「……旅の途中、大量の蟲がこっちの方向へ移動しているのを見たという奴に会って」
「へぇ」

あと、もう一つ。

「その蟲がこの近くを漂っていたのは昨日と言っていたけど、そいつは今もいるのかい?」
「……いや、もう……」

クマドがどうして苦虫を潰したような顔をしているのか化野には理解出来なかった。だって

「そうか、お前が掃ってくれたんだな」
「……」

訊ねれば何も言わずフイッと顔をそらした。それを肯定と受け取る。

「ありがとう」

ひょっとしたら、クマドはわざわざその蟲を掃いにこの村の近くまで来てくれたのかもしれない、行き倒れる程に疲労していたのも、この村に被害が出る前にと急いでいたからかもしれない、それか掃うのがとても大変な蟲だったのかもしれない。いずれにしても、クマドがこの村を助けてくれたのには間違いなかった。

「もう一度言うよ、ありがとう……クマド」

きっとクマドはあの子供達が見つけなければ、黙って立ち去っていただろう。知らず知らずのうちに化野を救って。

「別に、ついでだったから」
「ああ、それでも助かったよ。ありがとう」
「……アンタは礼を言い過ぎだ」

その後「いつもアンタに助けられてるのは俺なんだから」という耳を澄まさなければ聞こえないような呟きを聞いて、化野の眦はすっかり下がってしまった。






おしまい