※ギン→淡、ムジ朔。タイトルは「まなさきにおちゆ」




あの女をひとつも憎んでいないと言えば嘘になる
俺と共に居たいという自分勝手な願いを叶える為にけして犯してはならない罪を犯した
俺はアイツにそんなことをされてまで傍にいたいと思ったことはなかったのに
アイツは自分の殺したヌシを喰わせることでヌシ殺しの業を俺にも被せた
肉塊を抱えながら真っ蒼な顔をして笑うアイツを拒否することは出来なかった
どうしても、あの縋り付くような愛を振り払うことはできなかった
被せられた罪の重さに反し、俺がアイツと過せた月日は短かった
山の気に中てられて日に日に弱っていくアイツを看病する中で感じたのは、ぐつぐつと煮えたぎるような憎しみ、あの日からアイツには困らされてばかりだった
「ごめんね」と何度も掠れた声を出すアイツを見下ろしながら、どうしてこんな風になったのか悔やまずにはいられない


とうとうアイツは死んだ
最後まで苦しそうに、自分のしたことを悔みながら

「もっと貴方と一緒にいたかった」


それでもアイツにとって一番の心残りは俺を残して逝くことで……
俺に出逢えたことはきっとアイツにとって幸せだったのだと思えた

そんな妻の亡骸に土をかけながら、それまで押さえつけていた嘆きが嵐のように湧き上がる
俺がヌシをつとめる山も同調するように哭いた

憐み、怒り、悔恨、憎悪

そして



さみしさ








――――眼前に堕ちゆ――――








白昼夢を見ていた。いつか観た先達の蟲師の記憶と、それにいくつも想像も交じっている。

気付けば一つの森を越えていた。ぼんやりとした状態で人里より蟲のいる森の中を歩いていたのかと思うとゾッとする。

あるいはこの白昼夢は森の蟲が見せていた幻覚だったのかもしれない。

ギンコは森の向こう側の町で依頼を一つ遂げたばかりだった。

ある小さな集落でおとなしかった人物が突然癇癪を起こし、近しい者に暴力を振るうようになった。

そんな事象が一件や二件ならただの喧嘩だと片付けられるが、短い時間に数十件と続いたなら異常性を感じざる得ないだろう。

結果から言えばそれは感情を凶暴化させる蟲の仕業だった。

凶暴化の度合いは溜め込んだ感情の大きさに作用されるから、日頃おとなしい者ほど振幅は大きい。

男女問わず攻撃の対象の殆どが共に生活している伴侶だったのは普段積み重ねている我慢の多さ故か、この時代、夫婦の絆なんて無理やり繋がれたものが多い。
家業を持つものは跡取りを、子供を作らなければならないし、職の無い娘をいつまでも養っていけるような家庭など少ないだろう、家族を獣や悪人から守る存在としての男手や、家事や家計を管理するのに女手はいる。だから皆、結婚する。そこに愛がなくとも、必要だからする。

その点、蟲師の殆どは独身だった。

蟲が見え、蟲に詳しい蟲師に助けを求める者は多く、収入が安定しているから

蟲の被害を受けた土地へ派遣させることが多く、身を軽くしておいた方が都合が良いから

それにギンコのように蟲を寄せるものは一つの場所に留まっておけない

だから、結婚には不向きな職業だとされてきた。

(狩房や薬袋みたいな一族はまた事情が違ってくるだろうが)

ギンコは街道を歩きながら知り合い二人の顔を思い浮かべた。うち一人は知り合いという程の付き合いもないけれど、彼の家の事情に予期せず触れてしまった事がある。

権力を保持する為か優秀な蟲師を輩出させる為か、狩房は良家の者と、薬袋は蟲師同士の婚約が頻繁に行われている。見合い結婚が一般的な世の中では珍しいことでも特別不幸だと嘆くことでもない。

ただ

(あの二人の場合は使命を持ってるから、結婚は許されていないだろうけど)

握った掌が震え眉間に皺が寄ったことに気付き、ポケットに手を突っ込み少し体を屈ませて歩いた。長い前髪が物騒な目付きを少しは隠してくれるだろう。これはこれで不審者のようだが昏い感情を公衆に曝して歩くよりはマシだ。

好きでもない相手と無理矢理結婚させられる淡幽を想像するのも厭だが、恋すら出来ない立場に立たされた淡幽を想像すると自分のものとは思えない激しい感情が生まれた。自分の中に善や悪の価値観はあれど他人を心底嫌いだと思ったことは無い、しかしそんなギンコでもあの二つの一族が嫌いだった。たまやクマドの様な例外はいるけれど……

淡幽の先祖が嫌いだった。その先祖がいなければこの世は存在していないかもしれない、ある意味“神”のような存在だけれど、彼女が禁種の呪いをその身に受けなければ淡幽は役目に縛られることなく、普通の女の幸せを享受できたんじゃないか?先祖がいなければ淡幽も生まれてこなかったのだから有り得ない想像だけど、でもたとえそうであっても許せないと強く思う。

ある程度は世を達観していないと蟲師なんてやってられない、その地に生きる蟲に対してどう向き合うかは結局その地に生きる者が決めること……納得できないことがあっても他人に押し付けず、成り行きを見守るだけ……その蟲師の中でも特に蟲と関わり深いギンコが“許せない”と思うことなんて珍しかった。

(最後にそう思ったのはクチナワの一件か)

ギンコはもう一人の男を思い返し息を詰めた。あの時だって自分のなかの善と悪の価値観に従い、彼の決断に間違っていると感じ行動を起こした。

結局その行動が当人の決断を変えることは出来ず、ムジカは彼の弟子とギンコ以外の人間から忘れ去られた。

彼の妻の眠る土地で、彼の存在は最初から無き者にされてしまった。

いや、あの山で眠る彼女だけは、あの山のヌシであった彼のことを永遠に愛していくのだろうけれど――……

「雪だー!」

子どものはしゃいだ声が聴こえ、ハッと顔を上げた。

気付けば見覚えのある村まで歩いてきていた。

彼女の住まう地が、すぐ近くにある村まで――


「……雪か」


灰色に覆われた空を見上げ、そこから落ちてくる白を目で追った。

積る前に消えていく雪は、それでも明日の朝には銀の世界の礎となるだろう。

無数の結晶が踏みつぶされた。上澄みの世界を、キラキラと煌めく世界を、ギンコは“家”というものの中から見たいと望む。



――雪宿りに来たのか?

――まるで遣らずの雪だな


なんて笑って出迎え、滞在を許す彼女の顔が瞼の裏に浮かんだ。