Tapestry Night
松野カラ松は香水をつけない。 本人は大人の男の嗜みだと言って尾崎が愛用していたものをつけていたのだが、それが他の兄弟からはことごとく不評、特に一松から猫の体に毒だから止めるよう言われ泣く泣く売りに出したのだ。 ただ、トド松が物凄く遠回しに「なにも付けていないカラ松兄さん自身の匂いが好き」と言ってくれ、カラ松もそれをポジティブに解釈し奇跡的に正しい意思疎通が出来たので大したダメージは受けなかった。 「カラ松兄さん、はいこれあげる」 カラ松の手にそれが渡ったのはトド松と付き合うようになって一ヶ月目のことだった。 何をするでもなく、釣り堀でぼーーと水面を見詰めているカラ松のパーカーのフードの中にそれは落とされた。 「なんだコレ」 「香水だよ香水」 「いや、見ればわかるが」 フードの中から取り出せば、それはコバルトブルーの香水瓶だった。 聞いたことのないブランドのもので、値段の想定もできない。 「家の中じゃ付けられないけど、長時間外出する時とかは付けられるんじゃない?どうせ帰り遅くなる時はお酒とか煙草とか焼肉とか女の人の匂いとか纏って帰ってくるんだし」 「……」 どこか刺々しい言い方する弟兼恋人に冷や汗をかいていると、トド松はクスリと表情を和らげて続けた。 「瓶がかわいいから買っちゃったんだけど僕には合わないから兄さんにあげる、全部使い終わったら僕にちょうだい」 空の瓶なんて何に使うんだろうと疑問を抱いたが、この弟のことだからなにかしら活用するんだろう。 「いいが、お前も一松から香水禁止令が出てなかったか?」 「だから長時間出かける時にちょっとつけるだけならいいかなって思ったの!食べ物の匂いとかお酒の匂いで家帰る頃にはわかんなくなるでしょ」 「そうか」 トド松はデートでイタリアンをよく食べるからか、おいしそうな匂いを付けて帰ってくることがあったが、その時も一松から猫には刺激が強いから早く銭湯に行ってこいと追い出されていた事を思い出した。 煙草や十四松がつけてくるドブ川の臭いにはなにも言わないので一松の基準はよくわからない、カラ松がそんな風に思っていると横にしゃがんでいたトド松が「それに……えっと」と言い澱みながらチラリと見上げてくる。 「短時間でも、カラ松兄さんと出掛ける時ならつけてもいいかなー?って」 「ん?」 カラ松もトド松の方を向き首を傾げて見せる。 すると弟は小さな声でこう言った。 「……家に帰る前に洗い流せば……いいじゃん」 「……」 「……」 沈黙が降りる中、トド松は自分の座っていた位置に戻っていった。 それはつまりそういうことだろう。 釣り掘の利用時間はあと三十分ほどあるけれど、カラ松は「まあいいか」と思った。 どうせ釣れやしないんだ。 カラ松は腕を捲り、香水瓶の蓋を外し口に咥えると、シュッと手首に吹掛けた。 「今日は夕食までに帰ると言ってあったな」 「そうだね……」 「それまでに洗い流さなければ一松に怒られてしまうな」 「うん」 トド松は俯いてそれっきり。 カラ松の手首からは紅茶のような香りがした。 青い瓶だからマリン系かと思ったが、それよりも深い香りにカラ松の心が擽られる、なるほどこれはトド松よりも自分向きだ。 「行くか」 「……うん」 末っ子と次男が一緒の時、次男が突然言葉が少なくなることがある、末っ子はそんなことにはもう慣れたと思う。 長く痛々しい台詞を言われてしまうと此方もツッコミを入れたりと余計な時間が掛かってしまうだろう。 彼が簡潔な言葉を使う時に何を考えているか解らないけれど、トド松は二人の静寂の時を大切に使おうとずっと前から決めているのだ。 69 69 69 69 69 69 繁華街の歩道と車道の間、柵に腰かけたカラ松はあらゆる物から発せられるネオンの中で自分の世界に浸っていた。 傍目から見れば、もはや彼のライフワークとなっている逆ナン待ちだったが、彼にとっては騒がしい家族から逃れて得る休息の時間でもあった。 誤解してはいけない、カラ松は家族が好きだ、ずっとあの家にいたいと思っている。 けれど好きだからこそ苦しくなることもあるだろう、時々は家族以外の存在を感じることも必要だ。 そこで己の孤独を思い知ったとしても、それはそれで大切な時間だと自分に言い訳をしながら、カラ松は白い息を空中に吐き出した。 ――その時 「わああ!!」 自分の足に何かがぶつかり、それが目の前でぺしゃんと地面に落ちたのに気が付いた。 つまり、カラ松の足に躓いて転んだ人物がいるということだ。 「だ、大丈夫か!?」 慌ててその人に駆け寄るカラ松だったが、その人はカラ松を無視して自力で起き上がり、耳元に当てていた携帯電話に向かって笑い掛けていた。 電話をしながらカラ松と目を合わせ、気にしないでと手を横に振るジェスチャーをする。 「なんでもない、ちょっと転んじゃって、うん、うん、大丈夫だよ、またあとでね」 と、言って通話を切った彼女(そう、女性だった)に、カラ松はもう一度「大丈夫か?すまない」と話しかける。 「いえ電話しながら歩いてた私も悪いんです」 「しかし……」 「たしかに人通りの多い所で長い脚をほっぽりだしてたお兄さんも悪いですけど」 「う……」 カラ松が言葉を詰まらせると彼女はふわふわとした茶髪を揺らし笑った。 「大丈夫ですよ、私ほこう見えてタフなので」 そう立ち上がって砂埃のついてしまったロングスカートを払い、カラ松にも立つように促した。 「けど誰かと待ち合わせなんだろう?それなのに服を汚してしまって悪かった」 「汚れなんてもう落ちちゃいましたよ、それにこれから会うの別に彼氏とかじゃないんで大丈夫です」 「それにしては心配かけまいと無理に明るい声を出していたようだったが」 タフと言っても思い切り転んだ彼女はカラ松と話す時は声を震わせていた。 けれど通話相手と話す時は努めて明るい声を出していたように思う……と、初対面の女性にするにしては随分と不躾な質問を投げかける。 「えっと、そうですね彼氏じゃないですが……大切な人ですよ」 「そうか……すまない」 苦笑を浮かべる彼女にもう一度頭を下げるカラ松。 しゅんとしてしまった男に困ったのか、女は話題を変えようと頭を回転させる。 「そういうお兄さんはこんな所で何してたんですか?」 「……え?いや……別に……」 いくらカラ松でも正直に逆ナン待ちだなんて答えられるわけもなく、言葉を濁していると女はピンときたのか「ひょっとして逆ナン待ちですか?」と聞いてきた。 自分を真っ直ぐに見上げてくる大きな瞳、カラ松はこういう目に弱い。 「馬鹿ですねえ、そんな香りを振り撒いてる男に声かけるわけないじゃないですか」 「へ?」 香り、と聞いて思い出す。 今日は遅くなるだろうとトド松から貰った香水をつけていた。 「お兄さんの香水ですよ」 女はふふーんと得意げに口角を上げて見せる、ああ、この顔は誰かに似ている。 「ずばり恋人からのプレゼントでしょう?」 「は?」 右手を拳銃のようにしてカラ松を撃ってきた。 カラ松の二十余年の生涯で“ずばり”なんて使う人間は初めてだ。 「たしかに恋人から貰ったものだが、別に俺へのプレゼントでは……」 「やっぱり!彼女さん随分とヤキモチ妬きなんですねぇ」 “人の話を聞けよ”と普段の自分を棚に上げて思う。 が、ヤキモチ妬きという言葉が引っ掛かり「どういうことだ?」と聞いてしまった。 すると「ちょっと待っててください」と女は自分のバックの中から一冊の雑誌を取り出し、付箋の貼ってあるページを見せてきた。 「ほら、これを見て下さい」 そこに並んでいたのは、カラ松が持つブルーの香水瓶と、同じデザインで色違いのピンクの香水瓶だった。 サングラスを外して良く見ると、ペアフレグランスというものだと書いてあった。 一つでも完成された香水だが、二つの匂いが合わさることでより濃厚な香りになると説明されている、そして…… ――離れていても、どこでも一緒―― そうキャッチフレーズが付けられていた。 「繁華街の女性は敏感ですから、この香水をつけてる人は恋人がいるってバレバレなんですよ」 女は「お兄さんがこういう場所によく来るなら、女避けのつもりなんでしょうねぇ」とカラ松の表情を見ながら可笑しげに笑う。 そして、約束の時間がもうすぐだからと言って足早に去っていった。 『静寂と孤独を求めてねぇ……まあ好きにすればいいんじゃない?どうせ声なんて掛けられないだろうし』 今朝方、トド松はそう言って自分を送り出してくれた。 トド松と付き合い始めてからも以前と変わらず出掛けるカラ松が、今は逆ナンが目的ではないと言えば信じてくれた。 「離れていても、どこでも一緒……」 そう呟いて、カラ松は自分の手首に付いた香水の香りを吸い込む。 トド松が空瓶が欲しいというから早く使い切ってしまおうと何度も彼をデートに誘った。 デートの度にこの香水をつけて、二人で様々な時を過ごし、この香りを纏いながら彼を抱いて、最後には洗い流してしまう。 たしかに思い出すのは最愛の恋人の顔だ。 「お前は好きにすればいいなんて言って、孤独にはしてくれないんじゃないか」 頬を染め、それでも晴れ晴れとした表情のカラ松は煌々しいネオンに背を向け、来た道を足早に歩き出した。 69 69 69 69 69 69 「はー……我ながら馬鹿なことしてるよね」 その頃トド松は、昼間カラ松が主にナンパ待ちをしている桟橋に肘を置いて、月と自分の影の浮かぶ水面を見ていた。 こんな暗く人気のないところトド松にとっては恐ろしくてしかたない筈だが、どうしても家に帰る気にはならなかった。 カラ松は外で他人と交流しているのに(ぼったくられてるだけだとしても)自分は家で待っているだけなんてイヤだ。 (こんな香水つけてたら女の子とも遊べないし) 袖に鼻を埋めると、森の中にひっそりと咲く薔薇のような香りがした。 紅茶と薔薇なんてカラ松のもつ香水と合わさればそれはそれは相性がいいだろう、残念ながら自分がそれを嗅ぐ機会はないだろうけれど。 (だって女々しすぎるじゃん) 離れている時も一緒にいる気になれるようにペアになっている香水を買っただなんて、カラ松に言えるわけがない。 (ま、なにかと疎いカラ松兄さんが気付く筈ないけど) そもそも彼はただ尾崎と同じものを身に付けたかっただけで香水自体に興味などなかっただろう。 しかしトド松はというと昔から自分の体臭が気になっていた。 人間は自分と遺伝子の遠い者の匂いを好むだとか、自分の匂いを嗅ぐと安心するだとか、香りに関する情報はいつもトド松を惑わせた。 色々言われているけれど実際どうなのか解らない、トド松は自分と同じ遺伝子を持つカラ松の匂いが好きで、彼の匂いを嗅ぐと安心するどころかドキドキしてしまう。 それはきっと自分だけで、カラ松はきっとトド松がどんな匂いであっても気に掛けはしないだろう。 あれは傍にいても遠い人で、己と近すぎるゆえに孤独を感じる、それでも…… 「僕と一緒にいてよ……兄さん」 家の喧噪を厭うなら何も言わないし何の言葉もいらない、痛くても絶対声なんて上げない。 他人を求めるなら自分と一緒に逢えばいい、悪どい人から守ってあげられるし、恥ずかしいのなんて慣れてしまった。 その時、トド松の後ろからカツンと音がして、小石が一つ水面に落ちて波紋を作る。 彼が彼の大好きな香りに包まれたのは一瞬後のことだった。 END |