溢れるほど灌げ
無重力な世界で、その天秤だけはしっかりと台の上に置かれてあった。

その天秤の周りには様々な皿が置かれていた。

きっと天秤に掛けるものだろう。

自分だけが乗った皿、家族全員乗った皿、自分を含めた兄弟達が乗った皿、自分を除いた兄弟達が乗った皿、幼馴染が乗った皿、男友達が乗った皿、女友達が乗った皿、兄弟がひとりずつ乗った皿。

その中のひとつを持ち上げる。

それはとても軽く中身を見なければ空っぽみたいだ。


だから、君に預けておく。

君の背中にそっと寄り添うように置いておこう。

気付くとしたら君がその場を離れるときかもしれない。

できれば君の手でそれを天秤にかけてほしい。


この世界を壊して新しい世界を創りなおすから――


!i !i !i !i !i



「いまお前の胸にある心臓はトド松のものなんだよ」


そう告げられたとき、正直意味がわからなくて、無意識にトド松に訊ねようと見渡すけれど、そこに彼の姿はなかった。

三人の弟と母親が一列に並び、その前に父親と長男が立つ。

数日前の検査の結果により、もういつでも退院できると決まったその日の夜のことだった。

六人の家族が見舞いに来て、どうして末の弟の姿が無いのだろうと疑問に思って尋ねたところ、険しい顔をした父が皆より一歩前に出て、無表情の兄がその横へ続いた。

計十四の瞳から見詰められ、己の視線をどこに注げばよいのか迷う、末弟がいれば迷わず父や兄を見上げるのに。


――トド松が、いない


「どういうことだ?」


静かな一人部屋の病室、白いシーツをにぎり締め唸るように尋ねる。


「そのまんまの意味だよ、お前の胸に移植された心臓はトド松の中にあったものだ」

「だから、どういうことだと聞いているんだ!!!」


夜の病院に怒号が走るがそれを咎める者はいなかった。

本当はカラ松だってそこまで聞けば解かっているだろう、トド松が何をしたのか、でも理解したくないと心が叫ぶのだ。


「だから……」

「カラ松」


おそ松の声を遮り松蔵がカラ松を呼び、ベッドの横にある椅子に腰掛け目線を合わせてくる。


「お前たちも座っていろ」


その声に頷いた松代は一松と十四松を促して病室内のソファーへ座らせ、自分も座る、チョロ松はベッドの端へ腰かけた。

おそ松は窓際に背中を預け腕組をしたまま音もなく息を吐く、柄にもなく緊張していたようだと自嘲した後、次男の方へ視線を向ける。

全員に監視されているような状態で、松蔵がカラ松に「まずは落ち着け」とシーツを握り締める手を取って強く握り締めた。

カラ松の心は茹で上がったように熱くなっているのに、心臓はいつもより少し跳ねる程度で落ち着いて、全身に一定の血液を送り続けていた。

家族がこんなことを冗談で言うわけがないからトド松のものだというのは真実でしかない、なのに。


「カラ松、自分が掛かっていた病については医者からなんと説明を受けたか憶えているだろう?」

「ああ」


父の言葉に相槌を打つ。

珍しい心臓病で、発生から数日で心臓が膨張し爆発してしまう病、治療法は今のところ心臓移植しか確立しておらず、しかし大半の患者は適性する心臓が見付からず亡くなってしまう。

わずか数日でドナーが見付かり拒絶反応が殆どみられないカラ松は奇跡中の奇跡だと医者や看護師は言っていたが、拒絶反応など出るはずもないだろう、相手が他ならぬトド松なら。


「みんなが奇跡って言ったのは、トド松に対してか……?」


病の家族を見て、代われるものなら代わってやりたいと思う者はいるかもしれない、自分の身体の一部を差し出す者だっている筈だ。

だけど、命を投げ打って渡す者がいったいどれだけいるだろうか。

六つ子なのだから誰か一人が欠けても困らないだろう……と揶揄されたことだって、六つ子同士でお前はいらない子だと貶し合ったことだってあった、誰が誰でも同じだからカラ松が死んだって後の五人で生きていけば良かったじゃないか、なのに何故だ。


「どうして!!」

「とうして……そんなものはトド松本人にしかわからんだろう」


松蔵は静かに言って「だがな」と続けた。


「お前が同じ立場だったらどうする?病に掛かったのがトド松だったら」

「……」


カラ松の表情が消えて、じきに頬がピクピクと痙攣し始める。

脳味噌がぐるぐる回って様々な言葉や映像が通り過ぎていくような感覚、思考や気持ちもなにもかもがついて行けない、けれど解ったことがある。

カラ松だってトド松の立場だったら同じ事をする、トド松の命が目の前で消えてしまいそうなら自分の命を差し出せるのだ。

自分を大事にしていないわけでも、生きていくことに執着がないわけでもないけれど、ただ何の迷いもなく死んでいいと思えるというだけ、それはきっと兄弟の中でもトド松に対してだけだ。

長男のおそ松が死ぬのならば次男として残された弟達を守ろうと誓う、三男のチョロ松が死ぬのならば残された兄弟達の為にもう少ししっかりしなければと思う、四男が死ねば残された五男や猫達のことを見てやるし、五男が死ねば残された者たちの為に明るく振る舞ってどうにか家族を元気づけようとするに違いない。

けれど六男が死んでも自分は他の者の為になにもできない、だって彼の代わりにはなろうとしたら自分が消えて無くなる、彼がしてくれていた役割はカラ松がカラ松でいる為に必要不可欠なものだった。

そんなトド松が死んでしまうなんて想像するだけで目の前が真っ暗になるものが、想像ではなく事実なのだ。


「トド松が……死にそうなら」


けれど、本当の理由は違うところにある、きっとトド松がカラ松の為に命を差し出した理由もそれでしかない。

あんなに自分を大事にしていて何よりも自分が可愛くて保身的な弟が(その割に損ばかりしているけれど)カラ松の為にしてくれていたことを思い出せば、簡単にその結論に辿り着けるのに、どうして今まで気付かなかったのだろう。


「俺は……どうするって……」


トド松を愛している。

だから彼を守る為なら命くらい掛けられる。


顔を歪ませ俯けば父が抱き留めてくれた。

背中を優しく叩く手に涙腺が動かされ、十数年ぶりに父の肩を濡らしてしまった。


「き……決まってる……だろ……決まってる……うぅぅあぁ」

「なら、それが答えだ」


静かなその声を聞き、カラ松の涙腺は完全に決壊し、声を上げて泣き出す。

つられるように一松や十四松、母の泣き声が聞こえ、おそ松はどうか知らないがチョロ松の方からは鼻を啜る音が聞こえる。

おそ松は真っ暗になった窓の外を見て家族の泣き声を聞きながら組んだ腕を両手で強く握りしめた。

どうしてあの時、トド松のことを止めてやれなかったのだろう、どうして二人の気持ちに気付いていながら何も出来なかったのだろう。

ああでも、もしかしたらあの末っ子は幸せだったのかもしれない、このまま生きていても誰かのものになんてならないし、なれないのなら――


――理想の死に方じゃね?俺は絶対ごめんだけどな――


おそ松は窓を開けて空を見上げる、星が輝いていた。

窓の開く音を聞いて心配してかチョロ松が横に来て、おそ松の顔を見た後、地面を見詰めた。

一階の窓明かりのお陰でぼんやりと花壇が見える。

トド松が飛び降りたのは昼間だったからこれより鮮明に見えていたんだろう、心臓を傷付けないように頭から真っ直ぐ落ちた末っ子。

彼が最後に思い描いた記憶の中にはきっと次男と、家族や昔馴染みの友達みんな映っていたんだと思う、ポケットの中にあるトド松のスマートフォンとSDカードを撫で、この中には人や動物、食べ物や雑貨や風景の写真が沢山入っていることを思い浮かべた。

人は笑っていて、動物は可愛くて、食べ物は美味しそうで、雑貨は面白くて、風景は綺麗で、それがあの瞳の中に映る景色のありのままだったとしたら、最期に映ったのは硬い地面なんかじゃない。

トド松が死んだ後にスマートフォンからSNSなどのデータは消してしまったけれど、写真と保存したままの下書きメールは消せなかった。

人の映る写真はだいたい自撮りのワンショットかツーショット、他人から写してもらった集合写真も多く、ごく稀に他人のワンショット(殆ど可愛い女の子)あとは兄弟の楽しそうな姿があり、酔っ払ったり寝惚けていたりする時のカラ松の写真も多かった。

トド松は自分が写らないのに被写体と同じような表情をして写真を撮る、野生動物を撮影するように寝ているカラ松に近付いていた時の彼を思い出し、チョロ松の口からフハッと笑いが漏れた。

ギョッとしたおそ松が彼を見ると涙がボトボト溢しながら窓のサッシに手を置きズルズルと床に座り込んでゆく。


「チョ……」

「なぁカラ松兄さん」


おそ松が名前を呼ぶ前にチョロ松がカラ松を呼んだ。

返事は無いけど聞こえている筈。


「アイツのこと怒んないでやって……自分のことも怒んないでやって……」


悲しんでも、寂しがってもいい、他の兄弟に八つ当たってもいい、だからどうかトド松と自分自身のことは責めるな。


「アイツね、お前のことずっと穏やかな表情で見てたよ、お前が馬鹿やってても仕方が無いなって優しい顔で見てた……それ全部お前の表情が優しかったり安らかだった時だよ?お前が嬉しいときアイツはお前と同じ顔するんだよっ」


だから今すぐは無理でも、いつか心から笑ってほしい、トド松も何処かで笑ってる気がするから、そう泣きながらチョロ松は続ける。

なんで生まれてきたかなんて答えてくれなくていい、なんで生きているかを答えられるようになってくれるなら、もう。


「そうだな……カラ松、お前の中にあるのはトド松の心臓だけじゃねぇよ」

「チョロ松……おそ松」


松蔵の肩から顔を上げ、二人を振り向いたカラ松は酷い顔をしていた。

でも全員似たような顔だ。


「生きろよカラ松、トド松の分まで」


勿論、おそ松も――




69 69 69 69 69



初めの頃は血反吐を吐く想いで生きてきたカラ松だったけれど、トド松がいなくなって数ヶ月が経つ頃には、強い痛みは感じなくなっていた。

時々思い出したように激痛が走るときがあるが、誰にも気付かれていないだろうと彼は思っていた。


「なに書いてるの十四松」


その年のクリスマスイブ、テーブルに座ってなにか書いている弟に一松が語りかけた。

サンタに手紙かもしれないが喪中ということでクリスマスと正月は中止ということは伝えてあるので違うだろう。


「え?これ?あのね、トド松に手紙書いてんの」

「え?」

「昔ね教会の神父様に聞いたんだー死んだ人は天国にいるって、天使にお祈りしたら天国に手紙を届けてくれるんだって」


兄達はそういえば幼い頃に森の教会に探検をしに行ってそこの神父と仲良くなったことを思い出した。

特にカラ松とトド松が気に入られていて高齢の神父が「跡を継がないか?」なんて聞いていたが、十四松も懐いていたのだろうか。

結局すぐ飽きて行かなくなったけれど、神父が亡くなったと聞いた時はもう一度くらい会っておけば良かったと思った。

あの教会は跡を継ぐ人がいなくなって今は廃墟というか、複数の鴉の巣になっていて人が近付ける状態では無くなったそうだ。

それはそうと……


「手紙、書くのか?」

「うん!だってトド松、手紙ももらいたいって言ってたし」

「え?」


スマートフォンを肌身離さず持っている彼が手紙なんてまどろっこしい手段を望むのだろうか、その方が気持ちが伝わるとあのドライモンスターが思うだろうか、と兄達は思う。

好きな人の為に死ぬという単純明快な愛をやってのけた末っ子はいまだにドライモンスターと認識されていたのだった。


「まぁいらないもんはいらないってハッキリ言うやつだったからな、兄弟限定で」

「嘘ではないだろうね、基本的に他人の好意は素直に受け取る方だったし」

「兄弟限定で疑いまくってたけど」

「僕とカラ松兄さんのことは信じてくれてたよ」

「お前はともかくカラ松のことは疑った方がいいと思うけどな」

「おい、どういう意味だ」

「下心的な意味で?」

「あーん?」


トド松のいない日常に完全に慣れたわけではないが、こんなふうに軽口を叩けるくらいカラ松は落ち着きを取り戻していた。

というのも家族が毎日トド松の笑い話を話題に出すから寂しさが紛らわされているのかもしれない。

そういえば自分がまだ彼が死んだと知らなかった頃、両親や長男三男が病室にくる度に彼のことを聞いていたが辛くは無かったのだろうかとカラ松は思う、一松や十四松はそれに耐えきれなくて一度しか見舞いに来てくれなかったのだと思っているけれど本当のところはわからない。

そんな一松や十四松も今は笑顔がみてとれる、十四松は「トド松は補欠でも永久欠番だから」等と微妙にショックを受けそうなことを言って銭湯でトド松の背中を洗う振りをする、一松はカラ松が眠る時にトド松の分を空けていても何も言わないし、トド松を弄れそうなヘソフェチ関連のものを見付けるとフヒッと笑うようになった……おかげで自分がヘソフェチだと思われる事もしばしばだった。

そんな兄弟達のおかげでかカラ松は落ち着いていたのだが、まだ心にぽっかり穴が空いたような感覚が続いている、二十年以上一緒にいた存在が急にいなくなったのだから当たり前だと皆は慰めてくれるが、このまま一生埋まることはないのだろうとカラ松は思っていた。

トド松のことは今も好いている、いや彼がいなくなってから前よりもずっと恋しくなった。

たとえ二度と逢えないとしても愛してる。


「俺も手紙をしたためてみようか」


ポツリと呟けば、兄弟の視線が全て注がれて、柔らかく細めらた。

心臓が喜ぶように弾む、カラ松が誰かに優しくされる度に脈打つものだから元の持ち主は随分惚れっぽかったとみるが、どうだろう?カラ松を騙そうと寄ってくる相手の前では警笛のように鳴り響くから違うのかもしれない。

この心臓は自分のことを想っているのかもとカラ松は密かに思っている、だとしたら浮気は出来ないな、この世界で一番好きなものは己のハートだなんて、以前と大して変わらないことを堅く感じていた。


「便箋と封筒は持ってる?あげようか?」

「いやチョロ松の茶封筒はやめといた方がよくない?」

「なんでだよ」

「心配無用だブラザー、最近フィッシングに行っていないから余っている」

「釣りと手紙ってなんか関係あんの?」

「それがあるんすよ一松兄さん」


十四松が一松に魚の餌について説明する中、カラ松は立ち上がって二階に上がってゆく、机でゆっくり綴ろう、弟への愛をしたためるのは時間がいくらあっても足りないだろうから……

彼がそう思って手紙を書き始めてから一年、トド松への手紙をようやく書き終えたのは、彼が死んで二度目のクリスマスの夜だった。

その日は雪がちらついていたけど月灯りが明るくて電気を着けなくてもよいくらい、一年で書いた手紙は三百枚をゆうに超えていて、封筒をいくつかにわけて入れなければいけなかった。

最後の一枚を仕舞った封筒にハートのシールを貼って裏側に『262』と番号を書き、トド松が好きそうなピンク色の箱の一番上に置いた。

蓋を閉めて青いリボンを結ぶ、明日教会に行って全て読み上げよう、家の墓はあるけれど、カラ松は何故かそこに弟が埋めてあるとは思えなかった。

その時、布団の端で眠っていた十四松がむくりと起き上がったのでカラ松は部屋の隅へその箱を隠した。


「みんな起きて、外に誰かいる」


そう言って十四松に起こされた兄弟達は一階へ降り裏口から庭へ出た。

月明かりで照らされた青白い庭、玄関の前に立っていたのは、一年以上前に死んだ末弟の姿だった。

その時はまだトド松だという確証がなかったので皆で様子を見ることにしたが、見た目は血色の悪く眼の充血したトド松で雰囲気もトド松のものに似ていた。

彼が庭に回り、六つ子の部屋を切なげに見上げる、そこで彼はこう言ったのだ。

酷く濁った掠れ声だったけれど、


カラ松兄さん

大好き

愛してる


さようなら


と……確かに言った。

確かにトド松だと解ったあとの六つ子の行動は言わずもがな。


ゾンビという本物の化物と化した末っ子を部屋に閉じ込めてカラ松は毎日愛を囁く。


末っ子はカラ松の愛をいまいち信じられないようだけど、おおかた生命の恩人への罪悪感を恋心を履き違えていると思われていると他の兄弟は思うのだけど、カラ松はただ真っ直ぐトド松へ愛を紡いでゆく。


愛する人と同じように悲しく切ない表情をしながら






END