桜色歌秘me蛍の続き






京の都に蝉が鳴く頃、勝呂竜士が明陀宗十八代目座主に就いて一年が経とうとしていた。
つまりそれは勝呂が志摩の長年の想いに気付いて一年過ぎたということだ。

「ゆく蛍、雲の上までいぬべくは、秋風吹くと雁につげこせ」

なあ蛍、飛んでいけるんやったら、此処はもう秋風も吹いとるよとアイツに伝えておくれ……蛍の季節は過ぎ、吹きわたるのは秋の風ではないけれど、夏空を見ながら思う。
一年前のあの日、勝呂が 部屋の整理をしていると机の一番上の引き出しから一つのお守りが出てきた。
学業成就と書かれたそれは自分達が京都に戻る時に志摩から贈られたもので、結局大学を卒業するまで持っていたことを思い出す。
渡された時は不自然に脹らんだ袋の中身が気になったものだが、ご利益が薄れそうなので結局開き見ることはなかった。まぁ志摩が真面目な顔して寄越してきたものだから、勝呂にとってはご利益など関係なく持ち歩いていたものだけど……そう、あの志摩がだ。
あれ以来、年に一度も帰ってこない放蕩息子。騎士團に所属しているのは確かだが、どこにいるか解らない薄情な幼馴染は勝呂が座主に就任するというのに連絡一つ入れて来ない。自分はこの姿を誰よりもアイツに見せたかったと思ったのに。
だから、というわけではないが志摩がくれたコレを不服げに眺めていた。そして以前ほど学業に専念しなくても良いからな、と何気なしにソレを開けてみることにした。

中から出て来たのは二個のボタンと一枚の絵が描かれた紙だった。
ボタンは中学高校の制服に付いていたものだとすぐに解ったがどうして志摩がそんなものをお守りの中に入れていたのか不明だし、絵が描かれた紙の裏側を見れば古典の解説が書かれていたので、古典の教科書を切り取ったものじゃないかと思ったが何のページのものか解らない。
もし志摩と同じ授業を受けていれば簡単に思い出せただろうに、勝呂にとって古典は好きな教科だったけれど特進科の専攻科目が限られていので高校では取っていないのだ。

「古典の教科書ですか?」

気になった勝呂は子猫丸の部屋へ行って、高校時代の教科書を見せてもらえるように頼んだ。卒業して四年経つが彼ならまだ捨てていないだろうと思った。すると案の定捨てていなかった子猫丸は「少し待ってくださいね」と押入れの奥から一つ段ボールを出してガムテープをビリビリ剥がす。中から古典の教科書を取り出すのを何故かドキドキしながら見ていた。

「……蛍の挿絵が書かれたページってあるか?」
「へ?あ、ちょっと待ってくださいっ」

懐かしげに表紙を撫でていた子猫丸に訊くと慌ててページを捲りだす。

「これ、このページやないですか?」

と、言いながら目の前に差し出されたページを見て勝呂は確信する、これだ。お守りの中に入っていた絵と同じものだ。
子猫丸に断ってからそれを手に取ると、挿絵の下に書かれた文字を追った。それが『ゆく蛍』の歌だった。

「……」

教科書と持ってきた紙を並べて、その意味を慮っていると子猫丸が恐る恐るといった様子で訊ねてきた。

「ひょっとして志摩さんから貰ったんですか?」
「は?」

面を上げた勝呂の顔に「何故それを?」と書いてあるので子猫丸は苦笑を零しながら言った。

「だって、まるで志摩さんの気持ちですもん」
「……この男の詠んだ歌がか?」
「いいえ、この娘さんの方ですよ」

ある男を病む程に愛していたのに、死の淵に至るまでついに言い出せずにいた娘。これが志摩だと言うのだろうか。そうか。

「志摩……好きな奴おったんやな」
「へ?」
「アイツあんな調子やさかい本命なんておらんのやと思っとったんやけど、そうか……あん時にはすでにそんな人がおったんやな……」
「えっと……和尚?」

気遣わしげに自分を窺う子猫丸に無理して笑みを向ける勝呂。どこか人生を諦めていた雰囲気のあった志摩に本気で好きな相手がいたことは幼馴染として同じ男として喜ばしいことであるのに、もの悲しい気持ちになる。

「なんか悔しいな……俺かて、ずっとアイツを……」

恋をすることは愚かで気恥ずかしい事のように思っていたけど、志摩を想う事で自分は確かに充実していた。叶わぬ想いに痛みを抱えたままでも、志摩がそこに立っているだけで景色は色付き、胸を熱くなり、時に勇気を奮い立たせた。そんな気持ちを志摩に与えている人物が他にいるのだとすれば勝呂は嫉妬せずにはいられない。

「……ひょっとして、今一緒にいてるんかも知れへんな」

志摩は優秀ではあっても、あの通りの性格なので騎士團からの信用はない。だから奥村兄弟のように本部で監視されながら過ごしている。酷く窮屈な思いをしているだろうと思っていたが、そうではないのかもしれない。もしも愛する人が傍にいて、故郷を離れ心細いだろう彼の支えになってくれているなら、それはそれで良いことのように思う。
自分の幸せより相手の幸せを……淋しいのが自分だけなら良いと心底思ってしまうのだ。勝呂は。

「……和尚」

複雑な心境に陥っているだろう勝呂に対し、子猫丸は困惑を隠せていなかった。勝呂は志摩に好きな相手がいるかもしれないという衝撃の所為で、どうしてその紙を自分に渡したのかを考えていない。難儀な人やなぁと呆れながら、助け舟を出せないかと子猫丸は思案を始めた。

「えっと、どういう状況で渡されたんですか?その紙」
「あ?ああ、これな俺らが京都に帰る時に志摩がお守りくれたやろ?そん中に入ってたんや」

――それは確実にアレやろう!!

志摩のことだからそんなつもりはないだろうが、普通に考えて自分の恋心に気付いてほしいという意思表示だ。だって『ゆく蛍』に出てくる娘はずっと好きだと言い出せずにいたから病んでしまったのだ。志摩だって限界だったのかもしれない。だから自分の想いが伝わるような事を無意識にやってのけたのかもしれない。全て推測でしかないけれど子猫丸の記憶の中の志摩廉造にはそういうところがあった。

「他になにか入ってませんでしたか?」
「そやな、中学と高校時代の制服のボタンが一つずつ」
「ちょっと見せてもろうてええですか?」

子猫丸がそう言うので勝呂はその手の上でお守りを引っくり返した。自らの手に転がり出された二つのボタンをジッと見詰めたまま子猫丸は言った。

「これ、中学ん時のボタン和尚のやないですか?」
「え?」
「端んとこちょっと溶けてるでしょ?これ理科の時間にアルコールランプでやったやつちゃいますか?」

確かに中学時代のボタンの端が少し溶けていた。そして言われて見れば自分の第二ボタンにはそんな痕があった。記憶力の良い勝呂と子猫丸がそう思うのだから間違いないだろう。

「なんで志摩が……?俺の第二ボタンは卒業ん時、女子にやって」
「そういやあの子、志摩さんと仲良かったですよね」
「……まさか」

今のところ導き出せる答えは、勝呂の第二ボタンを譲ってもらった。またはその子に頼んで勝呂のボタンを貰ってきてもらった。の二つである。でも、その二つの答えが意味するものは一つ。
自分に贈られた紙に描かれていた蛍の絵と合わせれば、いくら鈍い勝呂でも気付く志摩の好きな相手。

「あの女の子の連絡先、調べたら多分わかるけど、どうします?」
「……頼んでええか」
「はい」

頭を抱えることで顔が赤いのを隠しているつもりの勝呂を微笑えましく見守りながら、子猫丸は彼女と今でも交友を持っていそうな己の知り合いを頭の中で弾き出してした。



数日後、母校の桜の木の下で勝呂は彼女と会って話をした。夏の桜は青々と茂り、二人の顔に斑な影を落とす。

「そっか、ついにバレたんやね」

中学の卒業以来だから十年近くあっていない彼女は、面影を残しつつもあの頃より随分と綺麗になっていた。中学時代は志摩と仲が良いことに嫉妬しながら、自分を祟り寺の子と知っていながら普通のクラスメイトとして接してくる彼女に心の底で感謝していたものだ。

「コレ志摩くんに会ったら返しといて」

この景色も相俟って懐かしさに浸っていた勝呂へ、彼女は千代紙で作られた小さな箱を渡す。

「いつまでも持っとくと旦那から妬かれてまうから」
「結婚しとるんか」

見れば彼女の左手薬指には銀の指輪が嵌められていた。勝呂が問うと彼女はにこりと微笑んで見せた。それだけで幸せなのだと解かる。箱を開くと中身は自分達の中学の校章が彫られたボタンが入っていた。

「これは、志摩のか?」
「ええ、それ貰う代わりに勝呂くんの第二ボタンもろてきて頼まれたん…言うとくけど私別に志摩のこと好きやなかったよ今の旦那が好きやってんからな」

その彼にヤキモチを妬いて貰おうと志摩からボタンをもらったのだと笑って言った。

「志摩はあんなタイプやから仲良くしても誰も誤解せえへんし勝呂くん好きやから安心して友達でおれた」

と可愛い 顔で強かに笑いながら彼女は勝呂の胸をトンと押す。

「あんな……勝呂くん達は高校で離れたし同中の集まりなんて出えへんから知らんと思うけど皆な反省しとるんよ」
「なにをや?」
「勝呂くんを祟り寺の子供やって馬鹿にしてたこと」
「それは……」

少年時代のことは確かに苦い想い出だったが、祓魔師として様々な困難を越えてきた勝呂にとっては些細なことだった。全て幼馴染や友人達がいたからそう思えるのだけど。

「あの頃も皆、勝呂くんが良い人やってことも裏でいっぱい頑張っとることも知っとったし、なんやろ……嫉妬しとったんやろうね、強い勝呂くんに」
「別に俺は強くあらへんよ」
「そんな謙遜して、勝呂くんは凄いよ、そうやって立派に寺を復興させてはるしな」
「いや、まだまだやろ」

寺のことを言われると少し苦い。少しずつ檀家も増えているが最盛期にはまだ及ばないし志摩だって戻ってきてはいないのだから自分の努力はまだ足りていないのだろう。

「今思えば勝呂くんはエエ男やったなぁとか言ってる子多いし、案の定エエ男になってはるし」
「なに言っとんねん」

呆れた様に溜息を吐く勝呂を見て、昔の彼なら赤くなって否定していたのに随分落ち着いたものだ、と彼女は笑みを深める。

「ふふっ志摩は苦労しはるやろなぁ……高校時代なんて何度“坊がモテモテやー><”って愚痴メールが来たことか」
「……仲良かったんやな」

大人になったかと思えば子供のように嫉妬する所が勝呂の魅力の一つなんだろう、きっと志摩は今も彼を想っている。

「だからな、私は勝呂くんにもっと自信を持って欲しいんよ。中学までの同級生もお寺の人も今の檀家さんも勝呂くんのこと認めてる、きっと私が知らんとこでも勝呂くんは色んな人から信頼されてると思う」

それは否定できないと思った。否定なんてしたら遠くにいる自分の仲間達からどやされてしまう。

「そんで、志摩と幸せになれるのはアンタだけやと思ってる、だから……」

彼女は自分の左手薬指を撫でながら、この日一番美しい瞳を細めていた。

「もう志摩を離したらアカンで」

風に揺られ、木漏れ日がキラキラと輝いている。



それから数ヶ月後。珍しく奥村兄弟の弟が休日を取れたというので、酒の席へ誘った。恩師として旧友として同じ竜騎士として雪男との話は尽きを知らない。そして話題が志摩のことへ移った時ふと思い出したように雪男は言った。恐らく彼は酔っていて普段より口が軽くなっていたのだろう。

「そういえば以前、志摩くんとこんな話をしたんですよねー……」

雪男が話してくれたのは第二ボタンの由来にまつわる話。死地へ旅立つ戦士が、愛しい人に残した形見としての存在。他の説もあるけれど自分の心に一番残ったのはこれだと教えてくれた。

「それを聞いて志摩くん……こう言ったんです。男が、一家の主が家族を残して戦場で死ぬなんて許しません……って」

何かを守る為に戦うことを決めた人が、苦痛の中で死ぬことなんて許さない
愛する人が自分の目の届かない所で、孤独の内に死ぬなんてことも許さない
出来れば、こんな春の暖かい日がいい
歳とってもずっと仲良しな奥さんにしっかりした跡取り、孫や曾孫に囲まれて、柔らかい布団の中で
幼い孫に昔話をしながら……つい、うたた寝をしてしまって、そのまま逝ってしまうような

「そんな穏やかな死に方が似合っている――あの人には、って」

誰のことか、もう解かってますよね?と酒の所為で上気した頬を手を乗せて勝呂を覗き見る雪男。

「恩だの責任だの関係なく、志摩くん自身が本心からそう思ってるのだと言っていました」

だから志摩は大事な人のボタンを持っておけないのだと、いつもより瑞々しい唇が花弁のような溜息を一つ零した。
勝呂は今もポケットに入れて持ち歩いている彼のくれたお守りを強く握りしめた。

「でもね勝呂くん、以前は僕も志摩くんと同じ気持ちでしたけど……今は、第二ボタンは“貴方の元へ必ず戻る”という証だったんじゃないかって……思うんですよ」
「……」

ここで勝呂は雪男が実はあまり酔っていないのではないかと思った。ひょっとしたら子猫丸から自分と志摩の話を聞いて、慰めてくれているんじゃないかと――訊ねればきっと否定するけど、雪男らしい降り積もるような優しさだと思った。

「ありがとう、先生」
「もう先生じゃないですよ、勝呂くん」

シャンパングラスに反された照明が二人の黒髪を灯すカウンター、静かに時が過ぎる。それが、去年の冬の話だった。


春、志摩と別れ
夏、その心を知り
冬、彼への想いを再確認した

そして秋、勝呂の覚悟はとっくに出来ている。



* * *



リンリン、リンリンと勝呂の部屋に秋の虫が鳴いていた。
籐で出来た虫籠の中の鈴虫は、高校時代の友人で、同期の祓魔師が長期任務に入るからと勝呂に預けていったものだ。
秋の鈴虫なんて風流だからと安請け合いしてしまったがこんな大音量だとは思わなかったと早くも後悔していた。
弟からの受け売りであろう鈴虫の豆知識を披露するなら、この五月蝿さをどうにかする豆知識を教えて欲しかった。とりあえず窓を開けて籠を窓辺に置いておけば幾分マシにはなった。

「コイツらが鳴くんは秋の間だけやもんな……」

今まで追っ払ってばかりだった虫を自分と同じ命あるものだと意識したことは無いが、こうして全身を震わせ鳴く様はまるで持ち主の名前を呼んでいるようで意地らしい。そういえばアイツの名前は“リン”だった。彼の“リン”には涼やかさなどまるでないけど。

リンリン、リンリン、今度は勝呂の携帯電話が鳴った。小さい頃、自宅にあった黒い電話の音に似ているものを着信音に選んだのだ。

――非通知、どうしよう出るか出まいか

一瞬悩んだ勝呂だったが、緊急事態だったら悪いと思い着信ボタンを押した。すると――


『和尚?』

とても懐かしい、離れてから、ずっと思い出していた声が響いた。

「おま……志摩か?」
『はい、こんな時間にすみません……お久しぶりですね、和尚』

本当に、話すのは久しぶりだった。そして和尚と呼ばれたのは初めてだった。それでも淀みない台詞は前もって準備されたものだろう。

「……」
『今ちょっとええですか?』

息を飲み言葉を失う自分も相手はきっと予想済みだと思うと歯痒くなった。しかし漸く聞けた声を逃すわけにはいかない。
折角繋がった電話を切られまいと、彼の予想に反した事――例えばお守り袋の中身について――を問い質すのは保留にしておいた。いいのだ。志摩の気持ちはもう知っているから。

「放蕩息子が今更なんの用や」

漸く来た彼からの連絡に嬉しさが滲んだ。それが伝わったのだろう、電話の向こうの志摩の笑う気配がした。

『いえいえ、風の噂に和尚がお見合いすると聞いたもんで、アンタ緊張してへんかなって心配なったんですよ』

大きな行事の前に眠れなくなったり、その所為で頭痛に悩まされたりしとったやん?と、昔と変わらない調子で志摩は勝呂をからかった。

「阿呆、それやったら座主就任前にかけてこんかい」
『あはは、すんません、丁度大変な時期やったんで……ちゅうか大変やったから和尚の座主就任も早められたんでしょ?』
「まぁ……そっちにも事情あるのは解かってるけど」
『おお!アンタがそんなこと言うなんて……ちょっと会わない間に成長されたんですね』
「お前はずけずけ言うようになったなぁ」

昔より気安く話し掛けてくる志摩に嬉しくなりながらも、実は無理をしているんじゃないかと心配になる。もしそうだったとしたら遠くにいる自分に出来る事は上手く騙されてやる事くらいだけど――ああ、顔が見たい。昔みたいに背中越しじゃなくて今度はちゃんと向かい合って話をしたいものだ。

「なぁ、お前そろそろ帰って来れへんか?」
『そうですねぇ……考えときます』

なぁ?その言葉と言葉の間に、何を考えてる?電話越しでは表情が解からない、だからこそ余計に相手の気持ちを汲み取ろうとするのだけど、結局会って話す以上の成果は得られない。

『まぁもし帰っても和尚の部屋には行きたくありませんけど』
「ああ?なんでや!?」
『だって鈴虫がうるさいですもん』
「……」
『ん?どうしました?』
「いや、まだ虫嫌い治ってへんのやなって」

蟲属性の悪魔との戦いとかどうやってるのか気になる、まさか暴走してないだろうか?そう話すと志摩がクスクスと笑って任務の時は大丈夫だと教えてくれた。

『じゃあ和尚、そろそろ時間なんで切りますね』
「な!?お前……まぁ今度は時間ある時にかけてこいよ」
『はい』
「あとドキッとするから非通知はやめえ、別に無理にとは言わんけど」

以前の勝呂からは考えられないような言葉がどんどん出てくる、志摩と再び繋がりを持てる為ならいくらでも譲歩をしようと考える。志摩は電話口で息を飲んだ。どうしよう、勝呂が変わってしまっている、昔はもっと横暴で此方の都合など考えてくれなかったのに、どうしよう、これ以上話してはいられない。

『はい、じゃあ失礼します!』

そう言って、電話を切ってしまった。どうしよう怒らせてしまったか、どうしよう、もし彼が怒っていなかったら、そちらの方が怖い。こんなんじゃまだ彼に会う事は出来ないだろう。ああ、折角もう騎士團から自由に生きる権利を貰ったのに、漸く彼の元へ帰ることが出来るのに、こんなんじゃ会えない。たった数年顔を見なかっただけなのに、こんな些細なことで心乱されるなんて――彼への想いは断ち切ってしまった筈なのに、何故。

「坊……」

口をついたのは、これまでの人生で一番言った人の呼び名。離れてしまっても、時折思い出しては呟いた。ああ女々しいなぁ。志摩はその場にしゃがみ込むと「坊」ともう一度口に出した。

「お見合いなんてしないで、ずっと……」

ここ数年ですっかり泣き方を忘れてしまった志摩の瞳からは涙は零れない、その代わり酷くひくついた喉から懇願が零れ落ちる。

「好きです……好き、好きなん」

自分は男だから、身分が違うからと何度も諦めようとした。彼のことを想うなら絶対に諦めなければならない。でも、せめて今夜だけは声に出すことを許してほしい。きっと鈴虫の声に紛れて彼には聞こえないから。

「なんで?俺の方が坊のこと好きなんに……絶対誰にも負けへんのに」
「せやな……俺もや」
「ッ!?」

独り言に返事があって、志摩の身体はビクッと震えた。近付く足音にどくどくと心臓が脈打つ。頭の中を真白にしながら、志摩は恐る恐る顔を上げた。

「ぼ……和尚……」

その姿を見止めた瞬間、全身から血の気が引く思いがした。

「鈴虫の声って電話からは聞こえんのやて、知っとったか?廉造」
「……あ、う……」

――知っとったらあんなこと言う訳ないやないか!ていうか廉造って!?

志摩が混乱しているのを余所に、勝呂はどんどん近付いた。ずっと触れたかった熱がそこにあるのだ。
自分にあの虫を預けた友人は志摩のこの行動を予測していたのかも知れない。馬鹿の癖に昔から頭が切れたし、今はヴァチカンの上層部にいるのだから志摩の処遇だって把握出来ていただろう。勝呂に見合いの話が出たと知れば志摩は未練を断ち切ろうと京都へ、勝呂の近くへ来ると彼と、恐らく彼の弟も解かっていた。自分より理解しているところが悔しいが、今は感謝するしかない。

「ちゅうか、今アンタ「俺もや」って……」

顔を真っ赤に染めながら今しがたまでの言動を思い返していた志摩は、勝呂から言われた言葉の意味が解からなかった。
そんな志摩に「しょうがない奴やなぁ」と微笑みを湛えさせ、今度はハッキリと瞳を見て告げる。

「やから、俺もお前が好きやで、絶対誰にも負けへんくらい」

こんなことを言っても疑り深い相手はすぐに信じてくれないだろう、だから沢山、話をしたい。離れていた分、離れてしまう前の分も含めて、気持ちを伝えあおう。

秋の夜長、時間はたっぷりあるのだから。



勝呂はしゃがんでいた志摩を抱き上げた。どこに連れて行くかなんて決めていないから聞いてくれるな。
そうだ、とりあえず鈴虫の声の聞こえない場所にいこうか――……






END